今日は、価値観のお話です。

何が豊かさかは、自分で定義すればいい、というお話です。

 

自分の理想をバカにされる恐怖

個性のある人ほど、「自分の理想的な暮らしを人に見せると、バカにされそう」って思うこと、あると思うんですよ。

例えば私の場合、「田舎で質素に自由に暮らすのが好き」なわけです。

でも、世の中では、基本的に「都会でお金を使って浪費する生活がすごい」という感覚でしょ。

 

それとか、「アニメやラノベを一日中楽しみたい」とか、「電子工作を一日中やっていたい」、「ずっと車をいじっていたい」みたいに、思うことがあるかもしれません。

まぁ一日中ではなかったとしても、「別にお金持ちでなくてもいいので、こういうのを適量に味わいつつ、自由に生きたい」とか、あるかと思います。

 

豊かさには2つの軸がある

でも、世の中では正反対の価値観が主流です。

「お金持ちである方がいい」、「有名である方がいい」、「チヤホヤされるほどいい」みたいに、すごい競争的というか、時に脅迫的だったり、暴力的で。

なんだか、「不必要だとしても、どんなものでも多い方が絶対にいい」みたいなノリですよね。

 

同時に、そういう「称賛されることは、多いほどよい」以外の要素は、見下されやすいものです。

例えば、「アニメを見て過ごすのは、子供がすること」とか、「電子工作なんて、オタクがすること」、「車いじりみたいな汚れることは、下流階級がすること」みたいに。

すると、自分にとっては理想の暮らしなのに、「バカにされそうで、自分が恥ずかしい」みたいに思うことがあるかと思います。

 

でも、その必要はないと思うんですよ。

それは、豊かさというのは、基本的に2つの軸があるからですね。

この「豊かさには、基本的に2つの軸がある」と分かると、「何が豊かさかは、自分で定義すればいい」と分かって、自分の生き方を受け入れやすくなるかと思います。

 

何が豊かさなのか

その「豊かさには、基本的に2つの軸がある」ということを説明するために、これから「何が豊かさなのか」を見てみることにしましょう。

まぁ最近よく触れていますが、私はこの秋、栗拾いにハマったんですよ。

で、大量の栗を堪能したわけですが。

 

実は栗拾いにハマる前に、「栗を食べたいな」と思ったんですが、栗は高いので、スーパーで安いマロンケーキを買ってきて、食べたことがあるんですよ。

すると、全然栗が入ってないし、栗というよりもコーヒーっぽい味がして、思わず笑ってしまったんですが(笑

でも、まぁそれはそれでおいしかったわけです。

 

自然に近いか、手を加えるか

で、ここで豊かさには、2つの軸があると分かります。

一つが「自然に近いものを、自然に近く食べる」で、もう一つが「できるだけ手を加えて、加工したものを食べる」です。

素材を重視するか、人の手を重視するか、という対立軸ですね。

 

で、これって、どちらも贅沢じゃないですか。

 

どちらも贅沢になる

「自然に近い方がいい」という価値観であれば、「栗をそのままたくさん食べられる人が豊かで、かさ増しして食べる人が貧しい」とできます。

だいたい、栗って山で拾えばタダですが、都会に行けば高級品ですからね。

なので、そういう価値観では、「栗を心ゆくまで食べられないような貧しい人が、小麦粉とか卵みたいな、より安価なものを加えてかさ増しして、ごまかしている」と言えます。

だから、栗は「そのままたくさん食べられる方がいい」という価値観です。

 

一方で、「手を加える方がいい」という価値観の場合、「マロンケーキなどで手を加えて食べる人が豊かで、栗をそのまま食べる人が貧しい」とできます。

だいたい、貧しい人ほど「手を加えられない」ですからね。

なので、そういう価値観では「手を加えられないような貧しい人が、栗や食材をそのまま食べざるを得ない」と言えます。

だから、「自然そのままよりも、人が丹精込めて、手を加えたものがいい」という価値観です。

 

自分の好みに合わせればいいだけ

じゃあどっちがいいかというと、正直言って、どっちでもいいですよね。

「そんなの、自分の好みに合わせればいいだけやん」みたいな。

 

この世の中は、そういうものだと思うんですよ。

つまり、「価値観なんて、自分の好みに合わせればいいだけ」ということです。

 

価値観に優劣はない

これは能力でも生き方でも同じで、「こういうことができる人が優れている、それができないと劣っている」というのは、ただの価値観でしかありません。

そして、価値観に優劣なんてないわけです。

 

実際、世の中には空気や水とか大地とか温度とか、価値あるものなのに、価値が無視されているものとか、山ほどありますよね。

そんな「何を価値ととらえるか」という価値観も、いくらでも軸はあると分かります。

つまり、「アニメを見る大人は劣っていて、大人の芸術が優れている」とか、「電子工作をする奴は劣っていて、人脈作りが優れている」、「車いじりは劣っていて、人を雇う側が優れている」とか、1つの軸でしかありません。

 

でも、どんなものでも、その反対になる価値観がある、ということです。

「熱中できることがある」とか、「好きなことがある」、「自分の手足を動かして、身体でリアルな反響や感動を味わえる」みたいに。

そういう全体像が見えると、「なら、そんなの自分の好みに合わせればいいだけやん」と言えるようになるかと思います。

裏を返すと、そういう全体像が見えない人ほど、「それを持たない奴は、劣った奴だ」と見下しやすくなるように思います。

 

まとめ

だから、価値観なんてものは、どの方向に向かったとしても優劣なんてないわけです。

この価値観の全体像が分かると、「そんなの自分の好みに合わせればいいだけやん」と言えます。

 

それが分からないから、1つの軸だけで見て、どうでもいい競争をしてしまうわけですね。

だから、「こういうのが好き」ということを見下すような相手は、「お前は視野が狭いなぁ」と言うのもいいかなと(笑

結局のところ、「自分の好みに合わせればいいだけ」ですからね。

 

これが分かると、「価値観は好きに決めればいい」とできて、自分なりに進めるかと思います。

 

ということで今日は、何が豊かさかは、自分で定義すればいい、というお話でした。

今日はここまで~。

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