今日は昨日の記事の延長で、精神的なお話です。

「社会から一歩引いて見てみることで、分かることもある」というお話です。

昨日の記事が「時間軸で価値が大きく変わる」という内容とすれば、今回は「位置づけ(ポジショニング)で価値が大きく変わりうる」という内容です。

 

「自由にやりたい」人の生き方

私はどちらかというと、あまり積極的に社会に関わる方ではないんですよ。

指揮はできても、チームワークとか協調プレイみたいな、「上から命令を受けて行動をする」とか「全体のための歯車になる」ってことができない人で。

一言で言うと、「自由にやりたい」というタイプですね(笑

改善できるところがあればどんどん改善したいし、自分の性質とかスタイルに合わせて生きたい人だったりします。

 

例えば私の場合、小学校時代に子供会で野球をやってたんですが、ずっと「監督のサイン」が理解できなかったんですよ。

「肩に触れたら盗塁」、「腕に触れたらボールは見送り」みたいな、そういう指示の概念が理解できないと。

そのロジックや効率性は理解できても、サインそのものは何度教えられても覚えられないわけです。

なので、完全に「誰かの下で動く」ことができない性質なんだろうな、とは思います(笑

 

そういう性質もあって、私は少し社会から一歩を引いて見てみる傾向があるように感じます。

で、そういう視点で見てみると、結構多くの人が「常識」に縛られていると分かるんですよね。

「みんな当たり前のようにこうしてるけど、こうしてもいいよね」みたいな、今まで見えなかった部分が見えやすくなると。

それで今日も、私が小学生の頃に「みんなが常識に縛られている」と実感した出来事をお話ししてみましょう。

 

小学校のドッジボール大会のお話

私が小学校時代の時、私の学校ではドッジボールをよくやっていたんですよ。

全国でやってるのかは分かりませんが、うちの学校では小3~4ぐらいまではドッジボールが盛んで、それより上はサッカーが多かったような記憶が。

ちなみにドッジボールは「大人数でできる、チームプレイが必要ない個人競技」ですからね。

あれは「周囲を敵に囲まれた中で、大人数の群衆の中で、どう個として立ち回るのか」が重要になるので、私は大好きでした。

 

で、おそらく小学校4年生ぐらいの頃だと思うんですが、学校でドッジボール大会があったんですよ。

ちゃんと審判がいて、ギャラリーも多くいて、クラス対抗で戦うわけです。

 

ボールを持つ敵からは離れる方が安全?

それでゲームをやっていて、全体を見てみると、ふと気づくんですよ。

ドッジボールって普通、「ボールを持つ敵からは、距離を取るほどいい」っていう発想じゃないですか。

玉を取ってぶつけ合うので、ボールを持つ敵とは反対方向に、できるだけ敵からは離れる方が安全ですよね。

 

でもその大会では、審判がいるわけです。

そしてギャラリーもいて、応援しています。

すると、審判やギャラリーは、どうしても中央ライン近くに集まるようになります。

それは、外野の方になるほどいろんな方向に広くボールが飛ぶので、プレイの邪魔になるし、危ないので近づけないからですね。

 

で、あまりにも審判たちがラインのすぐ横にいるので、ふとこう思ったんですよ。

「なら、中央ライン近くで審判たちに偽装すれば、ぶつけ合わなくてもやり過ごせるんじゃない?」みたいな(笑

位置関係で言うと、次図のようなイメージです。

 

実際にやってみた

私はこういう好奇心は試したくなるタイプで、実際にやってみたんですよ(笑

プレイ開始時に、すーっと何事もなかったかのように、中央ライン近くの審判より前で、一番目立つ部分に立ちます。

で、審判には、ちゃんと「私はプレイヤーです。ちゃんと枠内にいますよ。ルール違反じゃありませんよ」と説明しておきます。

もうね、審判も苦笑いしつつ「了解」と言ってくれて、これでもう安心です(笑

また、当然味方の一部も私がチームの一員だと分かっているので、私の行動を理解しています。

 

一番問題なのが、プレイ開始時ですね。

私が審判前に立っていることで、正確に数えると、一人足りないわけです。

もし「人数が足りない」と判明すれば、そこでアウトで。

なのでドキドキヒヤヒヤしながらも、それなりに人数がいたので、無事にプレイが始まります。

 

で、どうなったか

もうね、私自身、びっくりですよ。

私の目の前で敵がばんばんボールを投げているのに、一番近くで目立つ場所に立っている私には、全く気づかないんですから。

もしばれたら、そんな近くにいる私なんて、一瞬で終わりですからね。

ある意味、銃弾が飛び交う戦場のど真ん中で、擬態をしてやり過ごすようなものです。

 

なので私は緊張で心臓バクバクなんですが、「全く動かない」は逆に不自然です。

だからあえて時々審判と話をしたりして自然に身体を動かして、「存在しつつも意識されない」というステルスを保つわけです。

で、たまにチームメイトがチラチラとこちらを見るので、「お前ら、こっちを見るな! ばれるだろうが!」とか内心思いつつ(笑

 

実はもう一つ問題があって、審判の横にスコア表示があって、残り人数が表示されるようになっていたんですよ。

だから、敵側プレイヤーが「表示と実人数が違う」と気づけば、そこでも私の作戦は終わりです。

そしてプレイが進んで人数が減っていくほど、ばれる可能性が高まるわけで。

なので、「もしばれたようなら、すぐにでも内側に戻ろう」と覚悟しつつ。

 

そして勝敗が決すると

で、結局時間オーバーでゲームが終了します。

共に2~3人程度のわずかな人数しか残っておらずに、私のチームは一見では、相手チームより1人ほど人数が少なくて。

だからゲーム終了の合図と同時に、相手チームは「勝った!」と喜ぶんですよ。

 

でも、審判は「引き分けです」と宣言するわけです。

私はすーっと、何事もなかったかのようにみんなの元に戻って、「マジかよ」とか「ありえん」と苦笑いされつつも、たたえられたと(笑

相手チームは審判に言い寄っていたんですが、審判が事情説明をして、引き分けはくつがえりません。

まさかの、私の存在が勝敗を分けてしまったと。

 

直後のゲームでもこれをやってみると、再び有効で。

こういうのは、一度使った相手には使えなくなるし、噂にもなるので、短期間でしか使えないことは分かってました。

そして「何度もやると恨まれるな」と感じたので、次のゲームの序盤でやめたんですが。

 

多くの人が、思い込みに縛られている

でもまぁ、私はこの経験で、「かなり多くの人が、思い込みに縛られているんだな」と感じたんですよね。

いやまぁ、ドッジボールなのでボールをぶつけ合って当然なんですが、誰も「中央ライン近くの一番目立つ場所で、プレイヤーが審判とおしゃべりしつつ、悠々と立っている」なんて思いもしないわけです。

 

私の発想は、正々堂々とかスポーツマンシップみたいな、「普通の人たちの、競争的な戦い方」で考えると、けなされることだと思うんですよ。

だって、世の中の人は「言われたとおりにしろ」、「我慢しろ」、「負けないように努力しろ」、「力で勝て」みたいな考え方が常識なんですから。

同じように、社会では「黙って働け」、「我慢して仕事をしろ」、「社会から距離を取るのは敗者だ」、「稼ぎ、多くを持つ人が勝者だ」、「有名企業やチームに入るのが勝者だ」というのが常識だと。

 

「常識が苦しくなる人」の生き方戦略

そして私は、そういう常識から見ると、最底辺な人間です。

私は嫌なことはしないし、我慢もしないし、社会から距離を取って、ものは持たないし、個人で小さく独立して、人間関係も狭くて、少しの不労所得を元に、好きに自由に生きている人で。

私だけでなく、例えばビジネスを作って売却して毎日遊んで暮らしている人とか、投資で収益を得て好きに暮らしている人とか、不動産でうまく収益を作ってゆったりしている人とか、そういう独自ポジションを作った人はみんな「常識からすると最底辺」だろうと思います。

やっぱり協調性もないし、歯車になれないし、自由にやるのが好きなタイプなんですよね。

ただ、そういう「最底辺な生き方」が合うタイプも、いると思うんですよ。

 

私は「自分の性質に合わせて、幸せを味わえるスタイルを求めて試行錯誤したら、こういうスタイルになった」という流れですからね。

だから私は、基本的に「常識」からは距離を取りたがるタイプです。

で、社会から一歩引いたところから見てみることで、「そんな生き方もアリなんだ!」と分かることもあるんじゃないかと思います。

そういう、「みんな当たり前のようにこうしてるけど、こうしてもいいよね」という発想が、自分なりの生き方を作ってくれそうに感じたりもします。

 

まとめ

なので、社会から一歩引いたところから見てみることで、分かることもあるんじゃないかと思います。

無理にボールをぶつけ合って、打ち勝つのが唯一の道ではないと。

意外と「こういう生き方もアリなんだ!」、「こういう収益の作り方もアリなんだ!」ってことは、あるものです。

 

なら、社会で「普通の人と同じように生きること」が苦しい場合、常識から出てみるのもいいように感じます。

打ち勝たなくてもいいですよ、頑張らなくてもいいですよ、と。

すると、自分なりの道が見えるかもしれません。

 

ということで今日は、「社会から一歩引いて見てみることで、分かることもある」というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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