今日は思いっきり精神的なお話です。

「周囲と比較しなくても、愚直に自分の道を歩くのでもいい」というお話です。

 

「比較しなくても大丈夫」な生き方

個性のある人ほど、なかなか周囲と同じようにすることができませんよね。

それで、うまくできなくて、「みんなが行く流れ」からドロップアウトしたり、落ち込んだり。

そして周囲と比較して、「自分がみんな立派になっていくのに、自分だけが無駄に苦しんで、進めていない」という自己嫌悪に陥ったり。

 

そういう場合、私は周囲と比較しなくても、愚直に自分の道を歩くのでもいいと思うんですよ。

そして、愚直に歩いていると、それが影響力を発揮することもあると。

今日はそれを、ストーリー風に説明してみましょう。

 

エスカレーターと階段の例

こういう状況を思い浮かべてみましょう。

まぁよく見る光景でしょうが、エスカレーターがあって、その横に階段があります

 

で、ここでは、誰もが下から上へと上る必要があります。

長い長い、誰もが80年近く味わう、険しい傾斜です。

 

だから、みんなはエスカレーターに乗っています

それは当然で、みんな「できるだけ何もせずに成功したり、上昇できるのが、素晴らしい」という考え方だからですね。

「階段を使って、汗まみれになって、しんどい思いをして上るなんて、バカがすることだ」という常識です。

 

階段を上る人

でも、その人は、いろんな事情でエスカレーターに乗れませんでした

エスカレーターが怖かったり、うまく乗れなかったり、経済的な問題だったり、生い立ちの問題だったりで、いろんな事情で乗るのを拒絶されたのかもしれません。

とにもかくにも、その人は階段を使わざるを得なかったと。

 

当然周囲は、階段を使って汗まみれで上っているその人を見て、笑います。

「あいつはバカだ、エスカレーターがあるのに階段を使うなんて」と、笑いものにします。

 

だけど、その笑い声は、その人の耳には届きません。

その人は、それだけ目の前の階段に必死だったからですね。

だから、汗まみれで、いろいろ限界なのに、それでも全身全霊で自分なりの一歩を進めていきます。

 

「どうしてあんなに熱中できるんだろう?」

すると、エスカレーターに乗っている一人が、ふとこう感じるんですよ。

「どうしてあの人は、あんなにしんどいことなのに、あんなに熱中して、真剣にできるんだろう?」って。

 

なのでその人は、人々の目が離れたときに、エスカレーターから降りて階段に向かって、階段を上る人に訊いてみるんですよ。

「なんでわざわざそんな風に歩くんですか。なんで笑われても、そんな風に歩けるんですか」と。

でも、階段を上る人は、うまく答えられません。

もちろん階段を上る人の胸中にも、劣等感とか、自分の生き方への疑念とか、そんなものはいろいろ渦巻いています。

だから、階段を上る人は、「こういう生き方も、いいんじゃないの?」とだけ答えます。

 

すると、エスカレーターから降りた人が、「じゃあ自分も階段を使ってみようか」と興味を持ちます。

ひょっとするとその人は、エスカレーターに乗っているのに、あまり幸せを実感できなかったり、しんどい思いをしていたり、周囲とうまくなじめなかった人かもしれません。

だから、「どうせエスカレーターでも周囲に気を遣ってしんどいんだから、こっちの方が少しは気楽でいいかもしれない」と。

 

そうしていると、元から上っている人が、階段を上るコツとか、休むコツとか、いろいろ教えてくれます。

なら、その人は「しんどいけど、意外と運動になって気持ちいいかも。それに、自分のペースで歩けるし、こっちもいいな」と感じたりするんですよ。

それに、未来なんてどのみち見えないので、この先どうなるかなんて、分からないわけです。

 

だから、意味や理由を勝手に後付けして、「この人について行ってみよう」とするわけですね。

「どのみちエスカレーターでは、自分の未来はない。なら、この人について行くのもいいんじゃないか」みたいに。

「一人でも歩ける」というのは、そういう魅力というか、強さがあるんですよ。

だから、後続の人がついてきやすいと。

 

そして変化ができてゆく

そうして二人で歩き始めると、さらにエスカレーターに乗った別の一人が、「なぜあの人は、階段に乗り換えたんだろう?」と思います。

そしてまた、一人が階段に向かいます。

そういう好奇心が強い人は、「知りたい」という欲求が強いですからね。

で、やっぱりいろいろ学んで、運動になったり、自由だったり、そういう価値体系を学んでいきます。

 

で、一人、また一人と階段を上る人が増えていって、エスカレーターの人たちはざわつき始めます。

そしてエスカレーターの人たちは、あるとき大声で、こう尋ねるんですよ。

「どうして階段を使うの?」って。

 

すると、階段を上っている後続の人たちは、こう答えます。

「人生は、自分の足で上るのがいいんじゃない。何も自分でせずに人生を終えるなんて、私たちは嫌だ。私たちは、自分の力で上りたいんだ」と。

で、その価値観の魅力に気づいた人たちが、わーっと一斉に階段の方に殺到するわけです。

 

そして気がつくと、最初は一人だったのに、今では大勢の人が階段を使って歩いているんですよ。

で、最初から階段を使っていた人は、英雄扱いされると。

すなわち、「価値観が変わるとき、その人は英雄になる」ということですね。

 

比較しなくていい、愚直に歩くのでいい

ここでの重要なポイントは、「エスカレーター側と比較しなくていい。愚直に歩くのでいい」ということです。

 

「変な生き方をしている人」に興味を持って寄ってくる人は、「他の生き方」を求めているんですよね。

すなわち、「エスカレーターに乗っているけど、それが苦しい人」もいるわけです。

「みんながみんな、ひとつの生き方が幸せ」なんて、そんなことはありませんからね。

 

その場合、特に意味とか理由とかなくていいんですよ。

ただ、「こうすると、こっち側でも生きられるよ」、「こういう生き方もあるよ」と、今まで上ってきた経験から教えてあげればいいと。

すると、意味とか理由なんて、後付けでできてきます。

 

価値観なんて、どっちでもいい

結局のところ、価値観なんてどっちでもいいものなんですよ。

「自動で成功する方が素晴らしい」もひとつの価値観ですし、「自分の足で、生きている実感を得ながら上る方が素晴らしい」もひとつの価値観です。

だから、どんな生き方だろうと、意味とか理由、面白さなんて、いくらでも後付けできます。

 

逆に、劣等感を持って比較してしまうと、後続はできなくなります。

というのも、最初の人が来たときに、ぐちぐちと「エスカレーターの奴らは」とか言うと、なんだか楽しそうじゃないですよね。

すると、「なんだ、エスカレーターに乗れない貧乏人か」みたいに、エスカレーター側の価値観で判断してしまいます。

 

階段を上る場合に必要なのは、そういう「エスカレーター側の価値観から、解放されること」じゃないかと思います。

だから、比較しなくていい、愚直に歩くのでいい、ということです。

そして、意味なんて分からなくていいんですよ。

よく分からなくても、自分なりに歩いていれば、理由とか意味なんて、後からついてきますからね。

 

まとめ

これが分かると、「笑いたい人には、笑わせておけばいい」と分かって、自分なりの道を進めるかと思います。

 

もちろん、大勢の人が来るとは限らず、一人とか二人ぐらいしか後続ができないこともあります。

でも、一人でも喜んでついてきてくれる人がいれば、充実度はまったく変わるんですよね。

「自分は一人ではない」、「自分は人を導く側だ」と分かって、自分のやっていることに意義や使命を持てるんですから。

なのでこういう生き方をする場合、「ファンが0人と1人とでは、天と地の差がある。だけど1人と1万人では、さして変わらない」という感覚です。

 

ちなみにエスカレーター側だと、「ファンが0人と1人とでは、ほとんど変わらない。ファンの1人と1万人は、天と地の差がある」ですけどね。

 

どっちの生き方でも、それはひとつの生き方です。

どちらでもいいので、好きな方を選べばいいかなと思います。

「反対側の道を選んでも、大丈夫ですよ。比較さえしなければ、意味や意義は、後からついてきますよ」ということですね。

 

ということで今日は、「周囲と比較しなくても、愚直に自分の道を歩くのでもいい」というお話でした。

今日はここまで~。

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