今日も精神的なお話です。
「どう幸せになるか」よりも「素直に選ぶ」を重視すると、こじれを回避できそう、というお話です。
こじれを持つ人の特徴
まぁ最近はよく、「こじれ」についてお話ししていますよね。
こじれていることで、目先の出来事に振り回されて、自分を満たすことができないわけです。
例えば「優しくして欲しい」という欲求を持つ場合でも、「弱いのはダメだ」、「自分を否定する奴は、全員たたきつぶす」みたいにとこじれてしまうことがあります。
ただ、自分とは違う価値観の人なんて、いくらでもいるものです。
そして、例えばSNSで騒げば騒ぐほど、反論が来るので、「たたいてはつぶす」という永遠のモグラたたき状態になります。
で、たたくのでたたき返されるし、人からも恨まれて、結局「優しくして欲しい」という欲求は得られなくなると。
同じように、例えば「安心が欲しい」という場合でも、「不安をかき立てる奴には、攻撃する」とこじれることもあるでしょう。
すると、恐怖や不安を作る政府や政治家、パワハラとかいじめをする相手ほど、たたいてしまうと。
でも、SNSには、恐怖や不安なんていくらでも出てくるし、マスコミも人々も、恐怖や不安、怒りをかきたてるものほど喜んで広げます。
だから、ある意味自分から「不安になるもの」にどっぷりつかっていって、結果として安心を得られなくなると。
そんな風に、本当に欲しいものがあるのに、目先のことに振り回されてしまって、ずーっと満たされないわけですね。
こじれがあることで、永遠に欲しいものが得られないことになります。
こじれている人は、自ら不幸を選ぶ
これは私の感覚ですが、こじれている場合、ひとつの共通点があるように思います。
それが、こじれている人ほど、「幸せ、普通、不幸、この3つの中から、好きなものを選んでいいですよ」と言われると、不幸を選びやすい、ということです。
そして、自分からあれこれ理由をつけて正当化して、「これがきっと幸せなんだ。幸せなはずなんだ」と思い込もうとしてしまう、ということです。
本当はしんどくて苦しくてやめたいのに、「こうしなきゃ」と勝手に未来を決めつけて、苦しさに飛び込んでいると。
すなわち、「自分の欲求」が先に来て判断するのではなく、「決めつけて判断して、無理矢理それを自分に当てはめて、正当化しようとしている」ということです。
その「自分の欲求」部分を、意識できていないように思います。
「幸せになるには、頑張らなきゃ」という思い込み
これは本人の感覚からすると、「幸せになるには、頑張らなきゃいけない」とか、「戦わなきゃいけない」という感覚かなと思います。
「頑張らなくていい手段(幸せ)、ほどほど頑張る手段(普通)、必死で頑張らなきゃいけない手段(不幸)」を示されると、条件反射のように「幸せになるには、必死で頑張らなきゃ(不幸)」を選びやすい、ということです。
でも、よく考えると、そこには「自分の欲求」部分が無視されていますよね。
そもそも、私たちは基本的に、必要以上に頑張ったり、戦うのは嫌なことが多くて。
自分の欲求に素直になると、「頑張りたい」とか「戦いたい」というよりも、「思わず熱中できることをしていたい」かなと思います。
そんな風に、条件反射的に「頑張る方を選ばなきゃ」という刷り込みがあって、「自分の欲求」部分が無視されてしまっていると。
で、頑張って成果が出ればいいんですが、成果が出ないことも多くて。
だから、どんなに頑張っても苦しいし、報われない状態が続くことになります。
まぁ、「成果が出る方がいい」とも限らないんですけどね。
間違って自分の嫌なことで成果が出てしまうと、永遠にぬるま湯になって、その「嫌なこと」から抜け出せなくなります。
世の中には、「間違って嫌なことで成果が出てしまって、死ぬまで充実できることができずに終わる」という人は多いですからね。
なので、ある意味「頑張って成果が出ない」というのは、「頑張って成果が出てしまう」よりも、自分なりに生きる上ではいいことのように思います。
「どう幸せになるか」よりも「素直に選ぶ」
そういうこともあって、そういうこじれを持つ場合、「どう幸せになるか」よりも、「素直に選ぶ」という部分に注目するのもいいように感じます。
そもそも、問題なのは価値観なんですよ。
「どう頑張るか、どう戦うか」ではなくて、私たちはそもそも、無理に頑張ったり、無理に戦いたくないわけです。
その場合、「どう幸せになるか」と考えると、「どう頑張るか、どう戦うか」という目先の手段に固執しやすくなります。
すなわち、「幸せになるために、不幸になる手段を取り込んで、毎日こなす」ということになりかねないと。
言うなれば、「健康になるために、毎日毒を飲む」と同じようなものです。
だから永遠にこじれを解消できずに、ずーっと本当に欲しいものが得られなくなります。
一方で、「素直に選ぶ」という部分に注目すると、価値観そのものに着目できます。
すると、「素直に言って、こんな戦い嫌だよね」とか、「素直になると、こんな頑張り嫌だな」と気づけます。
すなわち、「どう頑張るか、どう戦うか」という次元ではなくて、「私にとって、本当に欲しいものは何だろう?」という次元で判断できます。
「素直に選ぼう」とすることで、「本当に欲しいものは、こんな戦いじゃない」と、根底の価値観を疑えるわけです。
後は「素直さ」との戦い
なら、後は「素直さ」との戦いですよね。
ある意味、「素直な自分の欲求」を受け入れられるか、ということです。
「自分と向き合う」というのは、こういうことかなと思います。
そしてこれが分かると、こじれに対しては、「頑張らなくてもいいよ」という言葉は、一時的なごまかしでしかないと分かります。
そもそも、「幸せ、普通、不幸、好きなものを選んでいいですよ」という中で、不幸を選び続けているわけです。
その「不幸を選ぶ」限り、その枠組みの中で「頑張らなくてもいい」としても、まぁ効果はなさそうだと分かります。
問題は、最初の選択そのものにあるんですから。
こじれを直すとは、今までの生き方を捨てること
もちろん、「不幸ではなく、幸せを選ぼう」とすると、目先の損失は生まれるでしょう。
ある意味、こじれを直すとは、「今までの自分が作り上げてきたものは、間違っていた」と認めることです。
今までは、「最短、最速で成功しよう」としていたはずです。
でもこじれを直すと、そんな「最短、最速」が「まったく見当違いの方向だった」と気づいて、愕然とするものです。
「頑張るため、戦うため」に、きっと、いろんな能力を身につけてきたし、いろんな成果を出したことでしょう。
戦う技術や精神力を育てたかもしれませんし、我慢するスキルを身につけたかもしれません。
「いつか役立つから」、「お金になるから」と、人脈を作ったかもしれません。
「億万長者になる方法」みたいに多くの本を読んだり、うつ対策とか、アンガーマネジメントとか、いろいろ学んだかもしれません。
「こじれを解消する」とは、そういう能力や成果を、すべて不要とすることになります。
「今まで学んだこと、戦った成果は手放して、一から作り直そう」と、今までの頑張りを手放せるか、ということです。
遠回りを受け入れる勇気
そのために、遠回りを受け入れる勇気も必要になるかと思います。
こじれに気づくということは、「今まで、ずいぶん遠回りをしてきたな」と分かって落ち込むんですが、同時によりよい方向性を見つけられます。
なら、そこから「まぁいいや。ここからが自分にとって、本当の人生だ」と、本当に望む方向に進むようなものです。
そうやって少しずつこじれを正してゆくことで、何度も「遠回りだった」と落ち込みつつも、望むものや環境、豊かさを増やせてゆきます。
こじれを直すほど、進めば進むほど心地よくなるし、豊かになりますからね。
裏を返すと、ずっと頑張ってもうまくいかないのは、こじれがあって見当違いの方向に向かっているからだ、とも言えるでしょう。
なら、「遠回りでいい。最初から最短ルートなんて選べない」と分かって、着実に歩けるかなと思います。
そしてそういう「遠回りでいい」という理解が、人生に対する安心とか、寛容さを作りそうに思ったりもします。
裏を返すと、「最短距離で、最速で」に執着するほど、こじれにしがみつくし、「遠回りの人生」を許せなくなる、とも言えるかもしれません。
私の中では、「幸せな人生」って、「遠回りを許せる生き方」かなと思うんですよ。
遠回りを許せないのは、ひょっとすると不幸なことかもしれないな、と思ったりもします。
まとめ
なので、「どうやって幸せになろう」と考えるよりも、まずは「素直に選ぼう」としてみるのもいいように思います。
なら、「こんな頑張りや戦い、そもそも必要なかった。私が欲しいのは、こういうものだった」と気づけるかもしれません。
で、最初から最短ルートなんて選べませんからね。
すると、こじれを直しつつ、「遠回りだった。でも少しずつ、望む方向に進めばいい」と分かって、着実に豊かになってゆけるかもしれません。
ということで今日は、「どう幸せになるか」よりも「素直に選ぶ」を重視すると、こじれを回避できそう、というお話でした。
今日はここまで~。