今日は久しぶりに、どスピリチュアルなお話をしてみましょうか(笑
なぜ「神を信じることは、自分を信じること」になるのかを、理屈で説明してみましょう。
「神と自分、どっちを信じればいいの?」
よく宗教で、「神を信じなさい」とかあるじゃないですか。
私は自分の価値観で動きたい人なんですが、人によっては「神と自分、どっちを信じればいいの?」みたいに思ったりするかもしれません。
でも、実は西洋風な「神」の考え方や原理が分かると、「神を信じるのも、自分を信じるのも、同じことだったんだ」と分かるかと思います。
すなわち、「神を信じることは、自分を信じることでもありますよ」ということです。
これが分かると、自分の判断基準を大切にできて、動きやすくなるかなと思います。
ちなみに、今回説明するのは、西洋的で原始的なスタイルになります。
例えば日本で「神」というと、八百万(やおよろず)でたくさんいますが、ここでは唯一の存在を説明するとしましょう。
で、近代はいろんな考え方があるんでしょうけど、今回説明するのは、だいぶ原始的な考え方です。
神にもいろいろあるので、一応言っておかないと(笑
「あなたは宇宙にいますか?」という問いかけ
で、神とは何かを説明するために、ちょっと「宇宙」を考えてみましょう。
例えば私たちが「宇宙って何ですか?」と問われると、なんか「上にあるもの」とか「空よりも上空にあるもの」とか答えたくなりますよね。
他にも、「あなたは宇宙にいますか?」と問われると、「いいえ、ここは地球です。地上です。空気もあります」と答えるでしょう。
これが、宇宙と自分とを切り離した考え方です。
でも、少し見方を変えると、「宇宙と自分は同一のものだった」とできます。
例えばこの宇宙全体とか、別の宇宙から見ると、「地球に住んでいる私たちも、宇宙の中にある」って言えますよね。
地球も、大地の上も、私たちも、「この宇宙」の構成要素です。
なら、「あなたは宇宙にいますか?」と問われると、「はい。私は宇宙の中にいます」とも答えられると分かります。
「宇宙」を「神」と言い直してみる
じゃあ、その「宇宙」を「神」と言い直してみましょうよ、ということです。
ここで、「この世界を構成している、ひとつのものや法則」を「神」と定義してみましょう。
「宇宙」よりもさらに大きい、宇宙を含めてこの世界を包み込むすべてを「神」と呼ぶとします。
すると、「私たちは神の一部分である」と言うことができるでしょう。
それは、「私たちは、宇宙の一部分である」と同じ理屈です。
この宇宙も神でできているし、地球も、人間も、草や虫、山や岩も、「全部神でできている」と言えます。
「神」とは、そういうものですよ、ということですね。
「あなたは神ですか?」という問いかけ
なら、普通なら、「あなたは神ですか?」と問われると、「いいえ」と答えるでしょう。
でも、そういう「私たちは神の一部分である」と分かると、「あなたは神ですか?」と問われると、「はい」と答えられます。
それは、「あなたは宇宙ですか?」と問われるのと同じです。
より正確に言うと、「私も神の一部分ですし、あなたも神の一部分ですよ」ということです。
いやまぁ、「あなたは神ですか?」で「はい」と何も疑わずに答えるような人に対しては、「そんな人とは、なんか付き合いたくないな~!」とか感じるかもしれませんが(笑
ほら、原始的な宗教って、「偶像崇拝をしちゃダメ」って言ってるじゃないですか。
それは、神とか仏を偶像にしてしまうと、それに祈ることで「神は自分ではない」と感じちゃうからですね。
本来は「自分も神の一部である」という教えなのに、偶像に祈ると「神は自分とは別の、別人格を持つ存在である」と認識してしまうと。
だから、原始的な宗教では、偶像崇拝は禁止されているわけです。
仏性と八百万(やおよろず)の考え方も同じ
これが、原始的宗教での「神」ですね。
仏教では「仏性(ぶっしょう)」という考え方もありますが、これもほぼ同じ概念です。
日本の八百万(やおよろず)の考え方でも、「人間も神々の一員である」とすると、今回言う「神」と同一になります。
八百万の神々は、「万物に命が宿る」ということですからね。
「八百万」とは、末広がりの象徴で「無限」を意味します。
だから本来なら、「八百万の神々には、人間も含まれている」と考えるのが自然です。
なので、日本の八百万の神々も、西欧の唯一神も、元は同じ「私もあなたも、神の一部である」ということを指していると言えます。
多神教でも、一神教でも、本質的には同じことなんだと。
で、どちらも「神と自分」を切り離すことで、本来の教えが失われたんじゃないかな、と。
この辺は、だいぶ以前に「全は一、一は全のお話」で語ったので、興味がある方はどうぞ。
だから自分で判断、決断していい
これが分かると、「自分で判断、決断していい」と分かりますよね。
だって、「自分の中にも、神が満たされている」んですから。
だから、「神を信じることは、自分を信じる」ということになります。
すなわち、「どんな決断を下してもいいですよ。それは神に許されていますよ」ということです。
これが分かると、自分の判断基準を受け入れられます。
「自分の人生は、自分で判断していいんだ。それは神に許されていることなんだ」とできて、周囲とは違った方向にも動けるようになります。
「自分と他者は等価なもの」という感覚
「じゃあ何をやってもいいの? 人を殺してもいいの?」と感じるかもしれませんが、「それも自分で判断していいですよ」ということです。
だって、他の人の中にも神があるんですから。
相手の行動や反応、社会からの反応も、神によって導かれていると。
なら、「自分と他者は等価なものだ」と分かって、自分の判断を尊重できて、同時に他者の判断も尊重できるようになります。
親と子、上司と部下、大統領と流浪の旅人、どちらが上でも、どちらが下でもなく、すべて等価なものだということです。
だから、「親や上司、大統領の言うことや判断が絶対」ではなく、それらは神の一部分である、と分かります。
親が子よりも優れているのではなく、子が親よりも優れているのでもなく、等価で別々の命であるし、同じ神の一部である、ということですね。
「自分で判断して、自分で結果の責任を負う」という生き方
ある意味で、「じゃあ何をやってもいいの? 人を殺してもいいの?」と問いかける人というのは、自分で判断できていない人だと分かります。
それは、「他者の判断に身を任せれば、自分はその結果起きたことの、責任を負わなくてすむ」からですね。
簡単に言うと、自分のせいではなく、「私は悪くない」と他者のせいにできるからです。
これはこれで、「歯車になって生きる」というひとつの生き方でしょう。
でも、そういう生き方が苦しい場合、自分で責任を背負うこともできるわけです。
そして、そういう「自分で判断して、自分で結果の責任を負う」とする方が生きやすい、そういうタイプもいる、ということですね。
特に、個性を持つことで自分から動きたい人ほど、「自分の人生は、自分で決めたい」と感じることが多いんじゃないかと思うんですが。
そしてそういう人ほど、「自分で判断して、その結果起きることも、自分のことにしたい」という欲求が強いんじゃないかと思ったりもします。
だから、自分なりの行動をしていいわけです。
どんな決断、どんな生き方をしてもいいんですよ。
嫌な親から離れても、嫌な会社から出ても、嫌な人と縁を切っても、自分なりに試行錯誤して生きても、七転八倒しつつ生きても、それでいいんだと。
それは、神に許されているんですよね。
そしてその結果起きることも自分のものなので、それも背負って自分なりに生きればいい、ということです。
まとめ
そういう風に「神」をとらえると、動きやすくなるんじゃないかと思います。
私たちはすべて等価であり、上も下もないんだと。
そういう感覚だと、自分の判断基準を大切にできて、失敗しつつも望む方向に進めるかなと思ったりもします。
ということで今日は、「神を信じることは、自分を信じること」というお話でした。
今日はここまで~。