今日はお休み日記です。
最近は餃子作りにハマってます
ここ最近、餃子(ギョーザ)作りをちょいちょいしていたりします。
いやぁ、最近はいろいろと余裕があるので、料理でも少し手の込んだものを作れるようになったんですよ。
それで先日、生まれて初めて餃子を作ってみたわけです。
完全に見よう見まねだったんですが、これが驚くほどうまく作れて、市販の餃子よりもよっぽどおいしいものができて。
まぁ私の場合、肉をがっつり入れたい人だし、好みで甘夏の皮も入れて風味もつけたので、そういう「自分好みにできること」がおいしく感じたのかもしれませんが。
で、それから餃子作りに少しハマりました(笑
一番面倒くさそうな皮作りが、一番面白かった
これで面白いのが、最初は「餃子は、皮作りが一番面倒くさそう」と感じていたんですよね。
だから、「餃子の皮は、市販のものを買おうかな」とか迷っていて。
でも実際に餃子の皮を小麦粉から作ってみると、これが一番面白かったわけです。
なんと言うか、「平たく伸ばす」みたいな指先を使う作業って、実は面白いんですよ。
感覚的には、陶芸にハマるのと同じ感覚かもしれません。
薄くのばしてきれいな円形にするのはコツがいるし、工夫次第でスピードアップもできるし、指先の感覚も心地いいし、繊細な力加減で変形するので、指先に集中できて無になれて。
なので、やっていて心地よいんですよね。
私の中では、「禅と同じ、無我の境地に入れる心地よさだな」と感じたりもします。
一番面倒くさそうなことが、意外と一番ハマりうる
それで思ったのが、「一番面倒くさそうなことが、意外と一番ハマることになるかもしれない」ということですね。
私が時々言っていることですが、「便利な状態であること」と、「便利にしてゆくこと」は違うものです。
そして作るのが好きな人ほど、「便利な状態であること」よりも、「便利にしてゆくこと」が好きなんだと。
例えば家や部屋でも、次のどちらが楽しめるのか、ということです。
- ベッドも机も何もかもそろった、今日から最高に居心地がよく過ごせる、完成された部屋
- ベッドも机も何もないけど、材料や工具は近所から確保できて、自分で自由に作れる、未完成の部屋
作るのが好きな人ほど、未完成の方が楽しめる
すると、作るのが好きな人ほど、未完成の部屋の方が楽しめるんじゃないかと思います。
すべて完成された部屋というのは、もちろん最初の瞬間は心地いいんですよ。
でも、何も改善できないとなると、すぐに飽きちゃうんですよね。
一方で、何もないけど、材料と工具、自由だけは豊富にある場合、もう心躍るでしょ(笑
確かに最初は一時しのぎの家具も必要だし、作るのに時間がかかるわけです。
でも、「まずはどうやって、必要な家具と、当面の心地よさを確保しようか」とか「この部屋を、どうやって自分好みに仕上げようか」みたいに考えてゆくと、作ってゆけるのが面白くて夢中になってしまうと。
そういう「自分や未来のために、夢中になれること」が、面白いんですよね。
「完成品」なんてどうでもいい
なら私たちは、実は「完成品」なんてどうでもいいのかもしれません。
むしろ、「こんな初期の段階から作るのか」と面倒に感じることが、意外とハマることも多そうに思います。
これは人生でも同じで、「完成された成功状態の人生」なんて面白くないですよね。
でも、例えば何もかもを失ったとしても、それでも「新たな人生を作るための材料と道具、自由だけは十分にそろっている状態」になると、一気に胸躍るわけです。
これが、作るのが好きなタイプの人にとって、人生に夢中になれる要素じゃないかな、と思ったりもします。
まとめ
なので、「完成品を得よう」とするよりも、「そこから作るのか。面倒だな」と感じることに目を向けてみるのもいいかもしれません。
意外とそういう「面倒そうなこと」に、熱中できることがあるようにも思います。
人生でも、「ちょっと失ってみよう」というぐらいのノリの方が、作り替えやすいようにも思います。
その場合、材料と道具に着目すると。
「ああいう成功した状態になれたらなぁ」とうらやむのではなくて、「私には、こういう材料と道具がある」と、徹底的にそういう材料と道具、自由を確保するわけです。
そしてその材料と道具を使って、自分なりに工夫して組み立てていくわけですね。
もちろん、最初ほど一時しのぎで食いつなぐ必要があるかもしれません。
でも、家具と同じで、少しずつ耐久性のあるものを作っていくと、少しずつ楽になるし、自分に合うものも作れます。
すると、うまく熱中して未来を作ってゆけるかもしれません。
まぁ陶芸とかやってみたい人は、餃子の皮作りをしてみるのもいいでしょう(笑
これは無になれるので、おすすめです。
ということで今日は、ギョーザから生き方について語ってみた日記でした(笑
今日はここまで~。