ここ数日は感情について熱く語ってましたが、そろそろ最終回シリーズの本題(性質別コミュニケーション療法)に戻しましょう。

今回は、境地開拓タイプが高共感になろうとする、こじれの心理メカニズムを説明してみることにしましょう。

 

別の性質になろうとして苦しむ現象

先日の「性質別コミュニケーション療法」でも触れましたが、私たちはこじれを持つことで、精神的な苦しみを持つことがあります。

いわゆる、「別の性質になろうとして、なれなくて、苦しむ」ということですね。

 

ならなぜそういう現象が起きるのか、ということです。

そこで今回は、境地開拓タイプを例にして、こじれの代表的なパターンを説明してみようかと思います。

 

いつもの4つの性質分類

そのために、今回もいつもの4つの性質分類(外向型と、3つの内向型タイプ)を紹介しておきましょう。(次図)

↑ いつものこれですね。

 

  • 外向型: 社会で歯車として生きられる。共感性が低いので、主張をしてコミュニケーションを取る。
  • 高共感タイプ: 社会で歯車として生きられる。共感性が高いので、配慮をして思いやるコミュニケーション方法になる。
  • 境地開拓タイプ: 工夫が得意で、新たなものを作りやすい。共感性が低いので、主張をしてコミュニケーションを取る。
  • HSPタイプ: 工夫が得意で、新たなものを作りやすい。共感性が高いので、配慮をして思いやるコミュニケーション方法になる。

 

「境地開拓タイプなのに、高共感にあこがれる」こじれ

で、ここから実際に、具体例で見てみましょう。

今回のような「本当は境地開拓タイプなのに、高共感にあこがれる」というこじれを持つ有名人として、元漫才師の島田紳助氏がいます。

 

そして彼はまさに、「親が高共感タイプで、子である紳助氏が境地開拓タイプ」という、「コミュニケーションが取りにくいタイプの親子関係」でした。

つまり、こじれが生まれやすい環境だったと言えます。

 

「親が高共感タイプ、子が境地開拓タイプ」の関係

親子関係を図で示すと、次図のような関係になります。

↑ 親と子で、こういう対角線の性質になる関係ですね。

 

この図で言うと、対角線に位置する相手は「コミュニケーションが取りにくいタイプ」です。

だから親子関係でこの対角線上になると、子はこじれを持ちやすくなります。(同質タイプで遺伝することも多いですが)

 

で、島田紳助氏の場合も、まさにこういう関係だったわけです。

これが分かると、だいぶ紳助氏のストレスやこじれの原因が分かるかと思います。

(以下は私がいろんな本や映像で見た記憶を頼りに語っているので、多少正確ではない部分もあるかもしれないので、「アバウトにこうだった」ととらえてくださいませ)

 

紳助氏の親子関係

実際に紳助氏の父親は、「時間があれば仏壇の前に座っている」というぐらい信心深かったようで。

そういう「自分軸がなく、神仏や権威者に判断を頼る」というのは、高共感タイプによく見られる傾向です。

 

そしてその父親は、だいぶ「配慮が絶対だ」という風に、極端に高共感タイプで、抑圧的だったようです。

だから若い頃に荒れていた紳助氏に対しても、「犬猫ではないんだから、言わなくても分かるはずだ」と、強引にでも共感性を押しつけていたと。

紳助氏の母親も、その父親には抵抗できなかったほどらしいので、相当な「配慮がすべて」という抑圧環境だったと予想できます。

(ちなみに紳助氏は、境地開拓性はそのまま出せているので、共感性のみ押しつけられていたと予想できます)

 

一方で子である紳助氏の性質は、極端な境地開拓タイプです。

つまり、「主張」か「論理」で語ってもらわないと、理解できないタイプなんですよね。

 

「論理言語と主張言語」でしかコミュニケーションできない状況

以前の「性質別コミュニケーション療法」でも触れましたが、これも性質別のコミュニケーション方法で見ると分かりやすいでしょう。

私たちは日本語でも、4つの言語を用いてコミュニケーションをしています。(次図)

↑ この4つの言語です。(社会言語、感情言語、論理言語、主張言語の4つ)

 

で、紳助氏の場合、親は高共感タイプなので「社会言語と感情言語」しか使えません。

だから紳助氏の親は、「みんなこうだから(社会言語)」、「相手の感情を配慮して伝える(感情言語)」というコミュニケーションスタイルです。

 

一方で、子である紳助氏は「論理言語と主張言語」しか使えないと。

だから紳助氏は、「こうして(主張言語)」、「なぜなら(論理言語)」というアプローチでないと、理解できません。

 

なので紳助氏は、「親とコミュニケーションが取れない」と感じてしまう現象が起きます。

それは、伝え方がかみ合わないからですね。

 

反抗期での「主張」という現象

で、こういう低共感な子が抑圧的な環境にいると、14歳ぐらいの反抗期になると、主張言語で「主張」をし始めます

その象徴が、「不良やヤンキー、暴走族的になる」ということですね。

 

ちなみに高共感なタイプで抑圧されている子ほど、14歳ぐらいからは「中二病的に、感情的にネガティブになる」と言えます。

その方向性は、自分の内面に向けられます。

 

一方で低共感な側で抑圧されている子の場合、14歳ぐらいからで「不良やヤンキーのように、ネガティブな主張をする」となります。

その方向性は、外側になるわけです。

 

ほら、よく「14歳ぐらいで不良になって、暴れる」とかあるでしょ。

その「暴れる」というのは、彼らのスタイルである「主張言語」を使っていると言えます。

そして低共感な側で抑圧を受けているから、そういう反抗(主張のネガティブ側)をすることで、抑圧源から離れようとしているわけです。

 

「抑圧環境」とは「自分が力を発揮できない環境」

「抑圧環境」とは、言い換えると「自分が力を発揮できない環境」です。

つまり14歳ぐらいからの反抗期では、もしその環境で自分の性質を発揮できない場合、抑圧源から離れようとするわけです。

 

そのために、それぞれの性質に合う形でネガティブさを出す、という手段を使うと。

自分に本来備わる性質を使い始めて、それで社会を変えるなり、自分を変えるなりすることになります。

 

なら、自然とそういう「力を発揮できない環境」を離れることで、「自分が力を発揮できる環境」に移れるわけです。

私たちの中には生命のメカニズムとして、そういう「自分に合わない環境から出て、合う環境に移れる」という仕組みが自然に備わっているわけです。

 

「自分に合う言語」の安心

そしてそういう状況では、「自分に合う言語」でコミュニケーションを取ってくれると、安心します

例えば若い頃の紳助氏の例でも、あまりに不良で暴力が止まらないので、「ある時、紳助氏の状態と話を聞いて、親戚の一人が紳助氏をいさめに来た」って言うんですよ。

それでその親戚は、紳助氏の部屋に乗り込んでくるなり、いきなり「ふざけんな!」と彼をぶん殴ったと(笑

 

で、紳助氏は怒るどころか、殴られながら「これが正しい反応やー!」と感激したって言うんですよ(笑

今までどんなに暴れても、親は全然主張をしてくれなかったわけです。

それは主張と論理で初めて理解できる紳助氏からすると、「無視されている。自分は声をかけるに値しない存在だ」と感じます。

 

ですがそんなとき、その親戚のように主張でいさめてもらえたり、もしくは理屈で語ってくれると、「この人とは通じ合える!」と分かります。

だから彼は、殴られながら、その「主張」に安心したわけです。

 

高共感な側からすると恐ろしい限りですが、低共感で抑圧を受けた子の場合には、子はそういう「自分に伝わる言語で伝えてくれること」で救われることもあると。

まぁ今は体罰とかは厳禁なご時世ですが、こういう「適切な言語で伝わる」という理屈は分かるかと思います。

すると同時に、性質として「自分ではどうしてもコミュニケーションできない」という相手が現実にいることも理解できるかと思います。

 

「子を別の環境に預ける」という工夫

そういうこともあって、この性質を理解して、手がつけられない子に対してうまく対処する親もいるものです。

その一つとして、「子を別の環境に預ける」というものがあります。

 

古くから、14歳ぐらいからの反抗期で、親が「これは手をつけられない」と判断すると、「この子は、こういう修業先に任せよう」と、子を他の環境に任せることがあります。

まぁそういう反抗期でなくとも、子をわざわざ別の場所に預けることがありました。

 

例えば子が高共感な場合、集団生活ができるなら「寺に預けてみよう」とかありました。

高共感で、だけど静けさが好きなら、「静かな田舎で自由にできる、婆ちゃんのところに預けてみよう」とか、あったものです。

逆に子が低共感な場合、子が外向型なら「規律のある奉公(ほうこう:公務員的な仕事)先や、スポーツチームに加わらせて、手伝わせてみよう」とかあったでしょう。

もしくは低共感でも工夫ができるなら、「商家に丁稚(でっち:手伝いのこと)に入れてみよう」とできたと。

 

古くにある「子を別の環境に預ける」というのは、そういう工夫でもあったわけですね。

抑圧環境から離すことで、子はその性質に合う生き方ができるようになる、ということです。

 

実際に、例えば新選組の土方(ひじかた)歳三は、14歳頃に商家に手伝いとして出されています。

商売というのは、「工夫ができて、低共感な人」が得意とする分野ですからね。

まぁ彼の実家がどういう事情で彼を出したのかは分かりませんが、実際に彼は境地開拓タイプだったので、商家に出したのは「彼の性質をよく見抜いているな」と分かります。

 

こうして高共感になろうとする

ですが当然、今ではそういう発想はだいぶ廃(すた)れてきているものです。

そして紳助氏の場合も同じように、14歳ぐらいで家から出るわけにもいかずに、抑圧環境に居続けざるを得ませんでした。

 

こういう環境にいると、子は「高共感でなきゃいけない。配慮できなきゃいけない」と思い込むようになります。

だから、自分から高共感になろうとします。

 

これは、親の態度で、少しスタイルが変わりうるでしょう。

紳助氏のように「親に合わせろ」と抑圧的な場合、「親が無言の圧を与えることで、子はそうなろうと自分を偽る」と言えます。

一方で、「親がこじれている」という場合、「親が偽って見せることで、子は錯覚する」となります。

この両者は、組み合わさることもありますし、片方が強く出ることもあります。

 

そういう風に、「偽りと錯覚」というこじれが交互に織り込む形になり得ます。

これも、こじれが遺伝する時にできる、一つの特徴のように思います。

 

紳助氏の言葉が響くタイプ、受け入れられないタイプ

なので、紳助氏は「性質は境地開拓タイプなのに、とても配慮できる言葉遣いをする」という生き方をしていたことになります。

 

実際に彼の本を読んでみると、彼は工夫を、配慮できる形で書くんですよ。

だからHSPタイプ(工夫ができて、配慮もできる側)からすると、彼の本は、とても心地よく受け入れられますから。

性質を偽ってはいても、HSPタイプに響きやすい形なんだと分かります。

 

ただ、だからこそ、彼は外向型には受け入れられなかったのかもしれません。

漫才業界というのは伝統的に、外向型がお客になる世界です。

だからその境地開拓的なスタイルは受け入れられにくく、常に強い批判がつきまとっていたように思います。

もちろん、その工夫で素晴らしい漫才を作っていたんでしょうけど、同時にその性格には敵意が向けられたと。

 

ひょっとすると外向型のお客たちは、そういう「高共感なふりをしている」というこじれに、なんとなく気づいていたのかもしれません。

そういう部分も、彼に対する違和感や不信感となって、外向型ほど彼を性質的に嫌ったのではないかと予想しています。

 

境地開拓をする人らしい去り方

で、紳助氏が芸能界から去ったのも、まさに境地開拓型でした。

境地開拓をする側は、あまり人を職業や思想では判断しないものです。

どんな職業だろうが、過去に犯罪歴があろうが、肌の色が違おうが、宗教が違おうが、言葉が違おうが、新境地では関係ないんですよね。

だから紳助氏、「相手が暴力団でも、助けてくれたならばお礼をするのが筋だ」という感性でした。

 

一方で社会は、社会の安定を重視します。

だから「暴力団と付き合うだけで、相手がどんな性質だろうと許されない」となります。

 

結果として、紳助氏は境地開拓型らしく、「それなら芸能界に未練はない」とすがすがしく去って、新たな生き方を模索し始めたと。

まさに、境地開拓をする側の生き方のように思います。

 

ただ、あまりにも長くお笑い業界に居続けたので、最初はだいぶ新たな方向性を見つけるのに苦しんだようです。

そういうのも、「自分の性質とは違う環境に長居をする」というのは、弊害を引き起こすようにも思います。

 

まとめ

こういうメカニズムだと分かると、境地開拓タイプの1つのこじれパターンが理解しやすくなるかと思います。

これは全8パターンの中の1つでしかありませんが、これも一つの形だと言えるでしょう。

 

ちなみに今回の「高共感であることを押しつける」を、「普通であることを押しつける」に置き換えると、境地開拓タイプの子は「外向型のようになろうとする」という反応を起こします。

「普通の社会の歯車になろうとして、なれなくて苦しむ」というこじれですね。

これも、1つのこじれパターンになります。

 

そして自分の性質に合わない環境で成功しても、やはり結局はその環境から出ざるを得なくなるように思います。

紳助氏の例が、まさにそう言えるようにも思います。

 

なら、自分の性質を知って、その生き方を実践できると、無駄な成功を追い求める必要はなく、心地よく生きられる道が見えるかもしれません。

 

ということで今日は、境地開拓タイプが高共感になろうとする、こじれの心理メカニズムを解説してみました。

今日はここまで~。

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