今日は、世の中についてのお話です。
共感性が高い人と低い人とでは、どれほど「日常の感覚」が違うのかを語ってみることにしましょう。
ここんとこ、ミラーニューロンだとか共感性についてよく語っていますが、今日もそんなお話です。
共感性が高い人の日常
最近よく触れていますが、共感性が高い人ほど「未来をつい考えてしまうタイプ」じゃないかと思ってます。
実際に共感性が高い人ほど、「未来がどうなるのか、よく不安になる」とか、「どうすればいいのか、決断に悩む」みたいなことってあるかなと。
それは、共感性が高い人ほど、ミラーニューロンが働くからですね。
ミラーニューロンとは、言うなれば「まねをする」という脳神経細胞群なんですが、それが共感性や、時間の概念(未来への不安)を生み出しています。
なので共感性が高い人ほど、「周囲の気分に左右される」、「未来をつい考えてしまう」、「考え方で気分が大きく変わる」みたいな性質が強くなります。
そしてこれは強制的に今の気分に上書きされるので、避けられない性質だということです。
なら、共感性が高い人と、低い人とで、どれぐらい日常の感覚が違うのか、今日は語ってみましょう。
すると共感性が低い人の「悩むだけ無駄」的な助言が無意味だと分かって、共感性という性質を受け入れやすくなるかと思います。
物語の冒頭に見る、日常シーン
共感性が高い人と、低い人とでは、日常をどういう感覚で過ごしているのかが結構変わります。
これは、物語の冒頭を見ると、その傾向が顕著に出ているものです。
結論から言っておくと、共感性が高い人ほど「悩みが多いのが日常」という感覚で、共感性が低い人ほど「食べて遊んで寝るのが日常」という感覚になります。
心理学では「マズローの欲求階層説」というのもがありますが、そのレベルが違うということです。
共感性が高い人ほど高次元(承認や自己実現)に着目していて、共感性が低い人ほど低次元(生理的欲求や安全欲求)に着目していることになります。
高共感な人の日常感覚
共感性が高い人ほど、「日常生活(衣食住レベル)では不満はないけど、悩みが多い」という感覚になります。
これは、特に共感性が高い百合漫画を見ると分かるかと思います。
未来を考えられるので、主人公は衣食住などの日常生活レベルはうまくこなせるし、満たされているものです。
だけど、「自分の価値観を理解してくれる人がいない」とか、「本当の自分を理解してくれる人がいない」、「本当に進みたい方向に進めない」みたいな悩みを抱えていると。
言い換えると、「多くの悩みを抱えられるから、重要な問題から着手できて、解決できている」とも言えます。
そしてその中では、衣食住とかは特に大切な問題です。
もしその辺を無視すると、死に直結してしまいますからね。
だから共感性が高い主人公ほど、生命の土台(衣食住)を重視して、その辺は確保できます。
だけど、そのために自分を曲げていたり、抑圧を抱えていることが多いと。
そういう「土台は確保されやすいけど、それだけ悩みが多い」という感覚が、高共感な人の日常です。
低共感(自閉症的)な人の日常感覚
一方で共感性が低い人、特に自閉症的な物語になると、これが一気に変わって「食べて遊んで寝るのが人間らしい」という感覚になります。
自閉症的な物語で特徴的なのは、冒頭で「食事、排泄、就寝」みたいな、生理現象が多く描写されることですね。
特に高共感なタイプでは避けられがちな、トイレなどの排泄シーンがあることが多いものです。
それはきっと、「人間なんて、食べて遊んで寝る、その程度のものだ」という感覚だからでしょう。
だから基本的に将来についての悩みなんてないし、そもそも未来を考えることすらありません。
ただ今を生きているだけだし、「今を生きる」とは、そういう「食べて遊んで寝る」ということに過ぎません。
低共感な人は、そういう動物的な感覚で生きていることになります。
だけど、それは時に衣食住を欠くことになって、生活基盤の不安定さにつながります。
ある意味、生活に規律や規則正しさがないし、安全や安定もないわけです。
「悩まない」というのは、確かに気楽ではあるんですが、そういう犠牲を持っているとも言えるでしょう。
スタイルの違いでしかない
これは「どちらがいい悪い」ではなく、スタイルの違いでしかない、ということです。
何を大切にして、何を犠牲にするか、その価値観の違いでしかないと。
高共感な人は「長期生存が大切。悩みはその犠牲だ」というスタイルで、低共感な人は「動物的に生きること」に価値を置いている、というだけです。
ある意味、「元々は動物的に生きていた生命が、進化をすることで、あえて高共感という性質を作った」と言えるでしょう。
だから低共感な人は、「悩まない」というよりも、「悩めない」が正確な表現のように思います。
そもそも脳内のミラーニューロンが働かないので、彼らの脳内では、「イメージが今の感情を上書きする」という機能がありません。
なので未来にリスクがあったとしても、そのリスクが危機感を伴わないので、「ま、いっか」となってしまうわけです。
だから悩まないでいられますが、その代わりに土台となる安定が欠けやすい、とも言えます。
低共感な人の「悩むだけ無駄」は無意味
これが分かると、低共感な人の「悩むだけ無駄。悩まずに行動しろ!」という言葉は無意味だと分かります。
例えば堀江貴文氏だとか、ひろゆき氏は、工夫ができるけれども、共感性が低いタイプです。
すると彼らの脳内では、ミラーニューロンが働いていないので、「イメージが今の感情を上書きする」という脳機能が理解できないんですよ。
ただし、彼らは工夫ができるので、問題が起きたらその都度対処できると。
だから彼らは「悩むだけ無駄。悩まずに行動しろ」と言うわけです。
でも実際は、彼らは「私は悩めるだけの脳機能がない。だからその機能を持つ人の感覚が理解できない。だから自分のように生きろ」と言っているに過ぎません。
それは相手の性質を理解した上での助言ではなく、「性質を理解できないから、自分のようになれ」という主張でしかありません。
なら、これはとても乱暴な論理でしかないと分かります。
なぜスピリチュアル本が求められるのか
そしてこれが分かると、高共感な人ほど「精神の扱い方」が重要になると分かります。
いわゆる、スピリチュアルだとか、精神性だとか、宗教だとか、そういう本や内容が求められる原因です。
高共感な人ほど、「自分の持つイメージが、最終的な自分の感覚に大きく影響する」という性質を持ちます。
ならば、「どう考えるか」とか「どういう思考回路を持つのか」で、今の状態が大きく変わります。
実際に、希望を持てる考え方を学ぶだけで、ぐっと元気が出るし、効果がありますよね。
高共感な人ほど、そういう「考え方」がダイレクトに「今の自分の状態」に影響します。
だから世の中にスピリチュアルや精神、宗教的な教えがあるし、それが一般の人には受け入れられない理由でもあります。
そういう内容は、高共感な人には役に立っても、低共感な人には無意味です。
そして世の中では、低共感な人がほとんどです。
なので「スピリチュアルや精神世界、宗教って、一部の変な人がハマるもの」というのが一般感覚のように思います。
まとめ
こういう違いがあると分かると、「悩めることは能力だし、十分なメリットがある」と分かるかと思います。
そもそも、「悩むな」で行き着く先は「低共感な人と同じように生きる」ですし、高共感な人は「悩まないことができない」性質です。
なら、その性質を知り、うまく使って共に生きることもできると分かります。
すると安全を確保しつつ、より心地よく生きられるかもしれません。
ということで今日は、共感性が高い人と低い人とでは、どれほど「日常の感覚」が違うのかを語ってみました。
今日はここまで~。