今日は思いっきりスピリチュアルな内容です。
「自分の内なる声を聞く方法」ということで、お話ししてみましょう。
自分の「内なる声」がよく分からない、という状況
以前、とある人とやりとりしていると、その人がこう言っていたんですよ。
「私、自分の『内なる声』みたいなものが聞こえないんです。だから本当にやりたいこととか、よく分からないんです」みたいな。
確か、私が「やりたいことをやれば、元気が出るよ」みたいなことを言った後だったように思います。
こういう人って、それなりにいるように思います。
すなわち、自分の「内なる声」がよく分からない、という状況ですね。
だから、何をすればいいのか分からないし、自分の本心が分からなくて、現状維持を続けざるを得ない、みたいな。
私自身は、そういう「自分の声」とか、「内なる声」みたいなものは、結構すんなり聞けるタイプなんですよ。
すんなりどころか、いつでも私の中で「こうしたい! こうしたいんだよ!」と叫び続けているので、やかましいぐらいですが(笑
すなわち、自分のやりたいことは結構分かるタイプです。
なので今日は、そんな私なりの「自分の内なる声を聞く方法」について語ってみようかと思います。
自分の中でネガティブな声に耳を傾ける
で、「内なる声」を聞くのは、結構簡単なように思います。
それが、「自分の中でネガティブな声に耳を傾ける」ということです。
だいたいそれが、内なる声なんですよね。
例えば、朝起きた後で、「仕事に行きたくない」とか「学校に行きたくない」、「あの人と会いたくない」とか思ったとしましょうか。
だいたいそういう「ネガティブで許されないこと」が、自分の内なる声なんですよ。
とても簡単でしょ。
声を聞いているのに、即座に排除している状況
だから、「内なる声が聞けない」ではなくて、より正確に言うと「聞いているのに、即座に否定、排除している」わけです。
私たちは内なる声が「嫌だよー」と泣いているのに、すぐさま「ポジティブじゃなきゃ! そうしなきゃいけないんだから!」と、無条件でその声を一刀両断してしまいます。
そして、意識から排除していると。
そういう毎日を送っていると、内なる声が分からなくなって当然ですよね。
「私はいつもネガティブなんです」と悩み続けるのも、同じです。
「ネガティブ側を受け入れてはいけない」と拒絶しているから、内なる声が「嫌だ! 話を聞いて!」と大声で叫んでいるわけです。
だから、「ネガティブなことで悩む」という現象が起きると。
「内なる子供の声」を無視している
これは、「内なる声」を、「内なる子供」と置き換えてもいいでしょう。
私たちが親で、私たちの中には「内なる子供」がいます。
内なる子供が「嫌だよー」と泣いているのに、私たちは「ポジティブじゃなきゃダメ!」と、即座に否定して忘れて、行動しているわけです。
でも、これって子供側の立場になってみると、哀しいことですよね。
例えば私たちが子供だった頃、親には「自分を理解して欲しい」って感じたと思うんですよ。
私たちが「こうしたい」と本心を申し出たときに、向き合って欲しかったはずです。
で、たとえ欲求が実現できなくても、「そうしたいのね。そう感じて当然よね。分かるよ」と、感情を理解してもらいさえすれば、安心できたんですよね。
それは、少なくとも「理解されている」と感じるので、「守られている」と安心できるからです。
その上で、「だけどこういうのが現状だから、やらなきゃいけないの」と説明してもらえると、しんどいのはしんどいんですが、「理解されている」という実感はあるので、孤独感は消えます。
そして、「理解されている」と安心感があるから、「少しずつ変えていくのでいい」と納得できます。
突き放されるから、本心を感じ取れなくなる
なのに、そこで「そんなの甘えだ!」とか、「わがまま言っちゃいけません!」と突き放されるから、次第に本心を出せなくなると。
そして、「こういうことを感じる自分は、いけないんだ。甘えを感じることはいけないんだ。わがままを感じることもいけないんだ」と、自分の感覚を無視し始めるわけです。
すなわち、私たちは幼い頃に、大人に、親に、「理解して欲しい」と願っていたものです。
なのに、私たちが成長すると、ふと気づくと「自分の内なる子供」を、まるっきり無視しているわけです。
その「理解されない苦しみ、共感してもらえない孤独感」は、誰よりも分かっているはずなのに、ふと気づくと、自分がそれをしてしまっていると。
まさに、一種の「虐待の連鎖」ですよね。
ネガティブに耳を傾ける重要性
私はよく「ポジティブに対するネガティブキャンペーン」みたいなことをやってますが、「ポジティブじゃなきゃ!」というのは、まさにそういうことです。
それは、自分の「内なる子供の声」を、一刀両断しているんですよ。
共感する姿勢どころか、声すら聞こうとしないと。
だって、「内なる子供の声」ってのは、たいていが「今の自分にとっては、ネガティブな内容」です。
まぁそれは当然で、今の生き方が心地よいなら、「内なる声」に耳を傾ける必要なんてないし、悩むことなんてありません。
苦しいから、判断に迷うから、「内なる声を聞きたい」と願っているわけです。
なら、「今の方向性からは外れる方向にうながす声」というのは、私たちの意識上では「ネガティブなこと」と認識されます。
なのに、現状が苦しいのに、「ポジティブじゃなきゃ! 絶対ポジティブ! 死ぬまでポジティブ!」と叫んで、現状維持を続けるわけです。
「内なる子供」を完全否定、完全無視です。
「自分の中にあるネガティブを受け入れない」というのは、そういうことです。
自分のネガティブ側を理解する
本当は、「自分の感覚」というのは、自分に対するフィードバックなはずです。
生命が「自分の個性には、これは苦しい」と返してくる、調整機能なんですよ。
なのに、そのフィードバックを無視すると、「自分に合わない人生や毎日」が訪れて、苦しくなるのは当然ですよね。
だから、「内なる声」を聞くのは簡単で、自分のネガティブ側を受け入れればいいわけです。
その存在を認めて、「そうしたいのね」と、理解してあげると。
行動の前に「気持ちを受け入れてあげる」
もちろん、現実ではすぐにその声を実現できることなんて、まれです。
すぐに現実を変えることもできませんし、現実では自分を抑圧しないといけないことも、多くあります。
だけど、そういう行動の前に、「理解して、気持ちを受け入れてあげる」ことはできるかと思います。
すると、少なくとも「理解されている」と、安心できます。
その安心があるから孤独を感じることもないし、それがエネルギーになります。
そして理解してあげるからこそ、必要に応じて、可能な限りで「ちょっと休もうか」とできて、ネガティブ側の欲することを実現してゆけます。
そして、もっと根本対策が必要だと思うと、生き方の根本対策に乗り出せます。
そうやって調整して、自分が望む方向に、少しずつ軌道修正できるわけですね。
「怒り」に向き合えるか
ちなみに、もちろん「理解してあげる」という部分でも、ひとつ大きなハードルがあります。
内なる子が叫ぶ「こうしたい」というのは、だいたい私たちにとっては「そんなこと、許されない」と感じることですからね。
劣等感が強い人ほど、そういう内なる声を聞くと、「甘えるな!」とか、「わがままを言うな!」、「現実を見ろ!」と、怒りがわくものです。
その「怒りがわく、自分の内なる声」に向き合えるか、ということです。
その怒りに向き合うと、おそらく過去の自分に、哀しい出来事があったかと思います。
それを受け入れると、「怒りは、こじれているからそういう反応をしていたんだ。本当は哀しかったんだ」と分かって、本心に向き合えるかと思います。
本当は、「無力な自分が許せない」
これは、現実でも同じです。
「政治家が許せない! 国家が許せない!」と怒りまくっている人がいますが、本当のところは、「無力な自分が許せない」なんですよね。
現状でも豊かになれるなら、政治家や国家を否定することはありません。
「こんな状況で、突破口を見つけられない自分が許せない。情けない」
その現実に直面するのが嫌だから、政治家とか国家を攻撃しているわけです。
すなわち、こじれているわけですね。
こじれていない人は、推進や提案をする
こじれていない人は、「許せない!」みたいに怒りを持つことはありません。
じゃあこじれていない人はどうするのかというと、「こうしよう。こう変えよう」と推進や提案をします。
否定ではなく、推進や提案をする、ということですね。
でも、こじれている人には、この違いが分かりません。
だから、「こうしよう」という声よりも、「許せない!」という声に共感してしまって、振り回されて、混乱していきます。
ただ、「許せない! 許せない!」と叫びながら、本当に許せないのは「自分自身の内なる声」なんですよね。
まとめ
なので、自分の内なる声を聞きたい場合、自分の中でネガティブな声に耳を傾けるのもいいかと思います。
それに向き合えた人から、自分の本当の声が聞こえるようになるかと思います。
「ポジティブじゃなきゃ!」というのは、まぁ目先で短期的に頑張るのであれば、それはそれでいいんですけどね。
それは長期的には続けるものではないように感じます。
私は短期よりも長期の方を重視するので、ネガティブな方にも耳を傾けて、受け入れてゆく方が好みだということです。
そうやってネガティブ側を受け入れていくと、少しずつ怒りも混乱も消えていって、劣等感も、こじれた行動もなくなるかなと。
そういうアプローチも、ひとつの手かなと思います。
ということで今日は、「自分の内なる声を聞く方法」ということで、お話ししてみました。
今日はここまで~。