今日は精神的なお話です。

「異文化を知ると、許容できる範囲が広がった」というお話をしてみましょう。

 

家では「風呂とトイレは別々の方がいい」という考え方

以前に人と話をしていて、家の話になったんですよ。

その人は家族(親や兄弟)と一緒に住んでいたので、「一人暮らしをするなら、どういう家がいいか」みたいな。

で、その人は「風呂とトイレは絶対に別々の方がいい」と言って、私も「確かにそうだよな」とか思って。

 

その後しばらくして、YouTubeで「アメリカのものすごい高価な家は、どういう家なのか」という動画があったので、興味本位で見てみたわけです。

それは何十億円もする価格で、ロサンゼルス郊外にあって、ヘリポートやプールはもちろん、数千本のワインセラーとか、ホームシアターとか、プロのシェフが入れる専用の厨房とか、もうアホみたいな規模なんですよ。

で、そんな規模でも寝室は結構狭くてシンプルで、「やっぱり寝室は狭い方が落ち着くんだな」とか思ったりして。

 

それで、その中で一つ驚いたことがあったんですよ。

それが、「そんなに高価な家なのに、風呂とトイレが一緒のスペースにある」ってことでした。

 

「そういう文化もアリなんだ」と分かって、楽になった体験

これはアメリカというか欧米の文化だと思うんですが、欧米だと風呂とトイレが一緒ってことが多いんですよね。

ほら、中学校の英語でも、家のトイレのことを「Bathroom」、ビルとか公共施設のトイレは「Restroom」、って習ったじゃないですか。

すなわち、「家のバスルーム=風呂とトイレ」って文化なわけです。

それはおそらく、「水回りは一つにする方がいい」的な考え方から、そういう家の構造になったのかな、と予想したりするんですが。

 

で、私はこれを知って、「あ、別に風呂とトイレが一緒でもいいんだ。そういう文化もアリなんだ」と分かって、なんかすごく楽になったんですよ。

「風呂とトイレが別々であることに、無理にこだわる必要はないんだ」みたいに。

 

思い込みから解放されると、楽になれる

きっと私の感性では、元々ずっと「その辺はどうでもいい」と感じていたんじゃないかと思います。

それなのに、周囲から「別々の方がいい」という価値観を得て、そうだと思いこんでいたと。

実際に、前に住んでいた家までは、風呂とトイレが一緒だったんですよ。

今は風呂とトイレが別々の家に住んでいますが、一人暮らしであれば、私にとっては正直大差なくて。

 

むしろ、前に住んでいた家の方が、掃除が楽だったように感じます。

その家は元々アメリカ人向け(近所にある米軍基地の人向け)に作られた住居だったので、風呂とトイレが一緒で、タイル張りだったんですよ。

そして換気もよかったので、風呂もトイレも床も、ざーっと水で流せて洗えて楽だったと。

 

だからほっとして楽になれた

だから、「風呂とトイレが一緒でいい」と知った時、なんだかほっとして楽になったと。

それは、周囲の「こういうのがいい」という思い込みから解放されたからかな、と思います。

 

あと、風呂でも、欧米ではあんまり湯船につからないじゃないですか。

それも同様に、それを知ってから「シャワーだけでもいいなら、私の場合はシャワーだけで満足できるからいいや」とできて、楽になれて。

 

異文化を知れば、いろんなスタイルを組み込める

そんな風に、異文化を知ると「こういう生き方やスタイルもアリなんだ」って分かることも多いように感じます。

そして、そういうのを知ることで、自分に合ったスタイルで生活を組み立てられると。

 

このブログを読んでいる方も、自由が好きな人が多いと思いますが、自由を縛られるのって嫌でしょ。

だけど私達は、周囲から「こうしなきゃダメだ」みたいな文化的常識を、結構受けているものなんですよ。

毎朝目覚まし時計で起きなきゃいけないとか、満員電車に乗らなきゃいけないとか、長時間通勤や通学をしなきゃいけないとか、行列に並ばなきゃいけないとか。

それとか、毎日働かなきゃいけないとか、会社に行かなければならないとか、給料を得なければならないとか。

 

でも、私達はできるだけ自由に生きたいわけです。

起きたい時に起きて、身体が活動的になる時間帯に活動して、休みたい時には休みたいと。

 

新たな生き方を知ると、常識がぶっ飛ぶ

そういう場合、「こういうスタイルもアリなんだ」、「無理にそうしなくていいんだ」と知ったら、常識がぶっ飛びますよね。

例えば「好きなことで不労所得を得られる」と分かれば、「毎日働かなきゃ」とか、「会社に行かなきゃ」とか苦しむ必要はないわけです。

それとか、「いい目覚まし時計を買わなきゃ」、「腕時計の電池が切れたから新しくしなきゃ」とか、細々したことを考える必要がなくなって。

 

なら、好きなことで不労所得を得たいなら、それを実現している人から学べばいいわけです。

実際にそういう方法で生きている人を知らないだけで、実際を知れば、その辺のオッサンでもできていることですからね。

だから、学べばできることなんですよ。

 

すると、「これから一生、嫌な通勤をして、ストレスのかかる会社づとめをする苦しみ」と「好きなことで収益を上げて、不労所得にするために学ぶしんどさ」を天秤にかけると、もう比べるまでもありませんよね。

だから、「そういう生き方をしてもいいんだ」と実感で分かると、ほっとするし、強烈なエネルギーを出せると。

 

まとめ

そういう風に、「こういうスタイルもアリなんだ。そう生きていいんだ」と異文化の実例を知れば、とてもほっとするし、楽になれるかと思います。

「風呂とトイレが一緒でもいい」と安心するのもそうですし、「無理に会社勤めでお金を得なくていい」と安心するのも同じです。

それは、ただ単純に、生きるスタイルを変えるだけなんですから。

 

言うなれば、生きる文化を変えるようなものです。

「収益作りは日本風ではなく、欧米風で生きてもいい」みたいに、スタイルをどんどん変えていくと。

収益方法を変えるとか、生き方を変えるなんて、その程度の難易度でしかありません。

ある意味、基礎部分で「日本風でなきゃ」という常識にとらわれているから、その上に欧米風のスタイルを組み込もうとしても、無理が出て「難しい」になっちゃうように感じます。

 

こう考えると、うまく常識を超えてスタイルを変えつつ、自分に合う生き方を作れるかなと思ったりもします。

 

ということで今日は、「異文化を知ると、許容できる範囲が広がった」というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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