今日は、精神的なお話です。
「生きるのが苦しいのは、錯覚があるからじゃないか」、という仮説について、お話ししてみましょう。
今日の記事は、新しいコンセプトの説明になります。
なぜ「生きるのがつらい」になるのか?
「生きるのがつらい」とか、「生きるだけでしんどい」って感じる人って、いるんじゃないかと思います。
例えば私の場合、独立した後でもずっと、「どうしてこんなに生きるのが苦しいんだ」って感じていたんですよ。
ただ街を歩くだけでも、ぼたぼたと全身から血が流れ出ているような感覚で、苦しくて息切れをすることもあって。
それは、劣等感に直接手を入れるまで、ずっとそういう感覚で生きていました。
今ではだいぶ楽になっていますが、よく「どうしてあんな風に感じていたんだろう?」と疑問に思うんですよね。
「あんまり怒らない人」がいた!
そういうとき、先日こういうツイートを発見したのでご紹介。
『あんまり怒らない人にありがちなコト』#あるある#怒らない人あるある pic.twitter.com/fIKeGvw6If
— すれみ (@_Smitter2) November 16, 2017
これを見て、私は「世の中にはこんな人もいるのか!?」と、結構驚きだったんですよ。
このブログを見ている方なら、結構似たように感じた人もいるんじゃないかと思うんですが。
でも実際に、そういう人はいるようで。
しかも、内向的な人(クリエイタータイプの人)であったとしても、こういうとらえ方ができる人もいて。
「生きるのが苦しいのは、錯覚の体系があるからじゃないか」という仮説
「じゃあなぜ、人によってこういう違いが出るようになったんだろう?」と考えてみたわけです。
そこでたどり着いた一つの仮説が、「生きるのが苦しいのは、錯覚の体系があるからじゃないか」ということです。
普通の感覚なら全然痛くもないのに、数々の錯覚があるから痛みを感じてしまい、生きるのが苦しくなってしまうんじゃないかと。
なので今日は、そういう「生きるのが苦しいのは、錯覚があるからじゃないか」という仮説について、お話ししてみましょう。
この仮説を実現できれば、「劣等感」とか「セルフイメージ」みたいな抽象的なことを言わなくても、具体的に自分の苦しさを解決できるようになるかと思います。
苦しい人、苦しまない人、どちらが正常なのか
最初に疑問に思うのは、「苦しむ状態と、苦しまない状態の、どちらが正常なのか」ということですね。
なのでこれを、生命レベルで考えてみましょう。
普通に考えると、生命は正常な状態で「生きていて苦しい」と感じることはありませんよね。
もちろん捕食者に追われていたり、今にも餓死しようとしていたり、怪我をしていたら苦しいことでしょう。
でも、それらが何もない状態で「何か分からないけど、生きるのが苦しい」となるのは、正常な状態ではないと分かります。
だから、どちらかというと、私たちのような「生きていて苦しい」というのは正常ではないわけです。
そして、上記ツイートのような、あんまり怒らない感覚の方が正常だと予測できます。
すなわち、「他人に期待しない方が当たり前」、「報われなくて当たり前」という感覚を持つ方が、自然なんだと。
「錯覚を植え付けられて苦しくなる」原理
じゃあなぜ、苦しむ人は他人に期待して、「報われたい」と思うようになったのでしょうか。
それが、「錯覚を植え付けられたから」じゃないかと思います。
以前の記事で「良心の呵責トリック」を説明しましたが、これがまさに錯覚の一つです。
この原理を見ると、錯覚を植え付けられることで苦しくなる例が分かるかと思います。
改めて説明すると、私たちは「良心の呵責トリック」という錯覚(トリック)を用いられることで、現実を錯覚してしまいます。
そして、苦しむようになってしまいます。
例えば親が、子に「早く食べろ」とさせたかったとしましょう。
でも、子どもには自分でできる限界があって、どんなに「食べなきゃ見捨てられる」と恐怖を感じて詰め込んでも、できないことってありますよね。
例えば私とかは、生まれつき胃腸が弱かったので、早く食べるのはできなかったと。
「できない」が間違いか、「できないことを望むこと」が間違いか
それは冷静に考えると、「できもしないことを望む方がおかしい」と分かります。
言うなれば、はさみを使って石を細かく切ろうとしているようなものです。
「はさみで石を切るなんてできないよ。石を細かくするなら、ハンマーとか、切断機が必要だよ」って分かりますよね。
そこで「なぜこのはさみはできないんだ! 無能なはさみだ!」と言っても、それを求める方が間違っているんですから。
だから当然、子は「私にはできない」と訴えます。
でも、もしそこで親が「お前ができないから、自分はこんなに苦しんでいる」と言ったらどうでしょう。
子は良心の呵責を起こして、「自分ができないことが、他の人を傷つけている」と感じます。
こうして優しい子ほど、「できない自分が、他の人を傷つける」と感じてしまうようになってしまうわけです。
「できない」イコール「人を傷つける」という錯覚
だけど、それは錯覚ですよね。
「頑張ってもできなかった」というのは、できない性質なんですから。
それははさみで石を切れないのと同じで、求める方が間違っているわけです。
なのに、「できない」イコール「人を傷つける」という思い込みが、苦しさを生み出すわけです。
「この錯覚があるだけも、生きるのが苦しくなりそうだ」というのは、すぐに分かりますよね。
できないだけで、誰かを傷つけるんですから。
だいたい、そういう親は膨大な種類や量の「お前(子)ができないことが、私(親)を傷つける」というメッセージを発してきています。
だから、「優しい心を持つ子ほど良心が苦しめられ、エネルギーを失っていくだろうな」と、すぐに想像できます。
でも、ここで「あ、求める方が間違っていたんだ」、「傷つけているのは錯覚で、実は相手は痛くなかったんだ」と分かれば、良心の呵責を起こさなくなります。
私たちは、誰も苦しめてなんかいなかったと。
相手が嘘をついて、痛がるふりをしていただけなんだと。
すると、「良心の呵責」という精神的な痛みから解放されます。
すなわち、トリック(錯覚)を理解して、「実は相手は苦しんでいなかった」と理解することで、生きる苦しみが消えるわけです。
錯覚によって、苦しむようになる
「他人に過剰に期待する」というのも、「過剰に報われたいと願う」のも、この原理と同じようなものです。
それらも何らかの別の錯覚(トリック)によって、必要以上にそれを求めてしまうようになってしまっているのではないか、というのが私の提案する仮説です。
なら、そのトリックを解明できれば、その「生きるのが苦しい」という問題を解決できそうですよね。
それは、原理がはっきりするから、「ここが問題だったんだ」とピンポイントで錯覚部分を分析できるからです。
今までは、「劣等感」とか「セルフイメージ」みたいな、抽象的な言葉でしか説明できませんでした。
だから、どこが問題だったのかさっぱり分からなかったんですよ。
それは、手品を前にして、「不思議な力でコインが移動したんですよ。だからあなたもこの不思議な力を信じましょう」と言っているようなものです。
でもここで、「左手を動かしているこの瞬間、右手がポケットに入っていることを見抜きましょう。ここでコインを持ち出しているのです」と具体的に言えると、「これが問題かーっ!」と分かりますよね。
それと同じように、問題の場所がピンポイントで分かれば、確実に錯覚(トリック)を解決できるようになると。
そして苦しんでいる人は、そういう錯覚の体系を身につけてしまっているから、苦しむようになっているのではないか、ということです。
なら、その錯覚(トリック)を解明できれば、苦しみを解決できると分かります。
まさに「人間心理の推理ゲーム」です。
そしてこのトリックを解明できた人は、多くの人を救う英雄になるんじゃないかと思ったりもします。
まとめ
そんな風に、「生きるのが苦しいのは、錯覚の体系があるからじゃないか」というのが私の提案する仮説です。
「セルフイメージ」とか、「劣等感」とかいう抽象的なものを使うのではなく、錯覚だとしましょうよ、と。
そうすることで、もっと細かく、正確に、心理的な苦しさを解決できるんじゃないか、ということです。
「良心の呵責トリック」は、そういう錯覚の一つです。
なので、苦しむ人ほど、「良心の呵責トリック」と類似した、何らかのトリックによって現実を錯覚させられているんじゃないかと。
そう考えると、実際に世の中には嘘や演技があふれているように思います。
痛くもないのに痛がったり、苦しくもないのに苦しんで見せて、他人を操ろうとしていると分かります。
ひょっとすると、そういう「自分は錯覚に踊らされていただけなのかもしれない」と気づくだけでも、生きづらさを解決するきっかけにできるかもしれません。
これは新しいコンセプトなので、まだ全然ブラッシュアップできていない状態ですが。
とりあえず「こういう考え方もいいかも」ということで、今日は説明してみました。
ということで今日は、「生きるのが苦しいのは、錯覚があるからじゃないか」、という仮説について、お話ししてみました。
今日はここまで~。