今日は、精神的なお話です。
「世界中の不幸に反応しなくていい」というお話です。
「世の中に不幸があっていい」と許す考え方
Twitterでも見ていると、世の中の不幸を拡散しまくっている人がいますよね。
多くの場合、そういうのは「私はこういう被害を受けている。許せない」という形で、被害者が主張する声を拡散しているんですが。
それを心からしたい場合とか、そういう変革を作ることに使命感を持てるのであれば、それもいいかと思います。
ただ、自分が人生で何をしたいのか分からない場合とか、自分が使命感を持てることに集中したい場合、そういう「他者の不幸」は無理に見なくていいんじゃないかとも思います。
すなわち、「世界中の不幸に反応しなくていい」ということですね。
この感覚が分かると、世の中にある不幸を許せるようになって、信頼感を得つつ、自分なりに行動できるように思います。
「誰かを助ける」ことは、「それ以外の誰かを見捨てる」ということ
「不幸で苦しんでいる人を救わない」って、一見残酷なように思えるじゃないですか。
でも、本当に誰かを助けようと決意した場合、「世界中の不幸を救うこと」は手放す必要があると分かります。
というのも、「誰かを助ける」ということは、「それ以外の誰かを見捨てる」ということを意味するからですね。
例えば小児麻痺で苦しんでいる人を助けようとする場合、「小児麻痺以外の苦しみで苦しんでいる人」は見捨てる必要があります。
世の中には、がんで苦しんでいる人とか、心臓疾患、消化器系疾患など、いろんな病を持つ人がいるものです。
それとか、飢餓で苦しんでいる人とか、難民になって苦しんでいる人、戦争、病、虐待で苦しんでいる人、いろんな人がいるでしょう。
ただ、私たちができる資源は限られているので、本当に誰かを助けようとするほど、それ以外の人は見捨てる必要が出てくると。
「見捨てる」ことは、「他者を信頼する」ということで補える
そして、その「見捨てる」というのは、「他者を信頼する」ということで補えると分かります。
例えば「私は小児麻痺を解決したい」と強く願い、動いている医師がいたとしましょうか。
そんな医師が、「私はがんを治療したい」と人生をかけて戦っている別の医師と出会ったとします。
なら、「がんは君に任せる。私は小児麻痺に集中しよう。だから、それでいい」と許せます。
すなわち、信頼感があるから、「他の苦しみは、他の人に任せよう」と受け入れられて、他者に任せられるわけです。
すると、いろんな分野で、他者を信頼できるようになります。
「きっと、世の中には心臓疾患を解決するために戦っている人もいる」、「義足や義手を作るために戦っている人もいる」と分かります。
他にも、飢餓や難民問題、環境問題みたいに、「そういう問題にも、対処している人がいる。その人を信頼して、任せよう」という信頼感ができるんですよね。
だから、自分の人生で「これを大切にして生きよう」と動き始めた場合、やっぱりそういう同士がいると認識できるようになります。
裏を返すと、そういう使命感が持てていないと、「それぞれの問題に対処している人がいる」と分からずに、世界中の不幸に反応してしまうんじゃないかと思います。
そして、「世の中は不幸ばかりだ」と嘆いてばかりで終わるんじゃないかなと。
本当は、多くの分野で真剣に戦っている人がいるのに、そういう人を応援することもできるのに、それが見えないわけです。
幸せとは何なのか、不幸とは何なのか
で、そういう風に「本当に誰かを助けよう」として動いていると、自然と「幸せとは何なのか、不幸とは何なのか」と考えさせられるようになるかと思います。
というのも、誰かを助けようとした場合、それが本当に相手のためにならないこともあって。
例えば「お金がない」という人に大金を与えても、すぐに浪費して使い果たして、浪費癖や依存心がついただけで、もっと苦しくなる人がいて。
それとか、転んで泣いている子や、事業で失敗した人に対して、「その失敗は、本当に悪いことなのか」、「失敗させないことが、本当にいいことなのか」と考えるようになります。
病だって、単純に病巣を取り除くよりも、生活習慣を変える方が効果があることもあったりして。
「ハイハイをやめて、立ち上がろうとして転んだ子を助けること」とは何なのか。
「信じていた人に裏切られて、哀しんでいる人を助けること」とは何なのか。
「病を持つ人を、本当に助けること」とは何なのか。
実際に、「あのときの苦しみがあったおかげで、自分は自分で立ち上がれるようになった」とか、「あの失敗があったから、間違った道から軌道修正できた」とか、ありますからね。
実際に動き始めると、結構早い段階で、そんな風に「誰かを助けることとは、何なのか」という疑問にぶち当たるかと思います。
「何が不幸で、何が幸せかとは、言い切れない」という感覚
そうして考えていると、少しずつ「何が不幸で、何が幸せかとは、言い切れない」と分かってきます。
失敗が成功の種になることもあるし、逆に成功が失敗の種になることもあって。
なら、「分からないなりに、自分にできることで、哀しんでいる人を助けられるようにしよう」とするようになるんじゃないかな、と思います。
すなわち、「自分の器で助けられる人だけを、助けよう」ということですね。
だって、何が不幸で何が幸せなのかは分からないので、分からない分は手放せるわけです。
世界の裏側で起こった不幸は、本当にそれが不幸なことなのか、分かりませんからね。
「それが本当に幸せなこと」なのか
そしてこういう感覚が分かると、「全世界の人や生命を、ハッピーにする」という願望や夢は、とても怖いものだと分かります。
というのも、「それが本当に幸せなこと」なのかも、一概には言い切れないからです。
簡単に言うと、「その『ハッピー』は、本当に相手にとって幸せなことなの?」ということです。
例えば私たちは穀物とかお肉を食べていますが、「食べ物がたくさんある」というのは、私たちにとっては幸せなことです。
でも、食べられる側からすると、嫌でしょ(笑
肉も穀物も、同じ細胞や有機物でできているので、どちらも生命です。
いやまぁ世の中には「食べられたい」という生命もいるのかもしれませんが、私自身は「食べられたくないなぁ」という感覚なんですよね(笑
そういう部分を考えると、「全世界の人や生命をハッピーにする」というのは、ちょっと危険そうに思います。
それは、自分の評価軸でしか、幸せを判断していないからですね。
「私はこれが幸せだ。だから全世界の人や生命は、この『幸せ』な状態になるべきだ」と言っているのと同じです。
言うなればそれは、「戦争をする奴は許さない。そんな奴は皆殺しだ」と言っているのと似たような矛盾かなと(笑
旅をする感覚で生きていい
こういう「他の不幸は、他の人を信頼して任せる」という生き方は、「旅をする感覚」に似ているように思います。
旅をしていると、喜んでいる人と出会うこともありますし、哀しんでいる人と出会うこともあって。
で、喜んでいる人と出会えば、一緒に喜んで。
そして哀しんでいる人と出会えば、共に哀しんだり、できることをすると。
もし自分の器では対処できない場合、他の人を信頼して、見捨てることになります。
世界中すべての不幸を背負う必要はないし、自分にできるだけのことを与えて生きると。
でも、そんな「見捨てること」は、自分を罰するようなことではありません。
だって、何が幸せで、何が不幸かは分かりませんからね。
同じように、私たちが「これがいいことだ」と思っていることも、「絶対にこれが正しいことだ」とは思わない状態になります。
常に、「ひょっとすると、この『正しさ』は間違っているかもしれない」と疑いつつ、それでもできることをしていく、という感覚です。
そうやって旅を続けるので、いいんじゃないかなと思ったりもします。
まとめ
そんな風に、「本当に誰かを助けよう」として動き始めると、「世界中の不幸に反応しなくていい」と分かるかなと思います。
自分が動き出せば、他者を信頼できるようになるし、「自分の器でできることをすればいい」と許せるようになるからですね。
助けられなかったからといって、自分を罰するようなことではありませんよ、ということです。
そして、何が幸せなのかとか、何が不幸なのかも、明快に分からなくていいように感じます。
特に、「誰かを助ける」という場合には、こういう「何が幸せで、何が不幸か分からない」という感覚の方が、合っているように思います。
それは、誰かを助けようとする立場にいる人が、「これが幸せである。これが不幸である」と決めつけると、いろいろ危険が出そうだからですね。
すると、世の中にある不幸を許せるようになって、信頼感を得つつ、自分なりに行動できるそうに思ったりもします。
ということで今日は、「世界中の不幸に反応しなくていい」というお話でした。
今日はここまで~。