今日も精神的なお話です。

「親ガチャ」と「子は親を選んで生まれてくる」は同じ意味になる、というお話をしてみましょう。

 

「親ガチャ」と「子は親を選んで生まれてくる」という概念

最近、「親ガチャ」という概念が出てきたようで。

これは、「自分の親は、ガチャと同じで選べない。だからハズレを引く場合もあるから、ハズレはあきらめて捨てていいよ」ということですね。

世の中には、虐待するような親とか、決定的に合わない親もいますからね。

そういう人にとっては、これは嫌な相手から離れられる、とても救いになる概念のように思います。

 

一方で、世の中には「子は親を選んで生まれてくる」っていう教えもあるじゃないですか。

これ、一見すると「親ガチャ」という概念とは正反対に見えますよね。

片方は「自分で選べない」、もう片方は「自分で選んだ」ということで、まったくの正反対です。

 

でも実は、この両者は同じ意味になるんですよ。

そして、両者が最終的に行き着くところが、「自分の意思で、親を捨てていい」ということです。

なので今日は、なぜ「親ガチャ」と「子は親を選んで生まれてくる」は同じ意味になるのか、その原理を説明してみようかと思います。

 

なぜ同じ意味になるのか

「親ガチャ」という概念は、分かりやすいので大丈夫かと思います。

「ハズレを後生大事に持つなんて、無意味だ。それが現実なので、無理に支配される必要はない」

「確かにハズレは哀しい。でも、それが現実だ。だから現実を受け入れて、手放せばいい」

こういう風に、分かりやすい論理ができます。

 

一方で、「子は親を選んで生まれてくる」も、同じ意味になるんですよね。

これは、「自分の責任」に着目すると分かるでしょう。

 

「自分で関係を終わらせていい」ということ

「親は自分が生まれる前に、自分が選んだことだ」とすると、自分の責任にできますよね。

すると、「親が悪い」と批判することができなくなります。

 

確かにそれは「自分のせいなの?」と怒りがわくでしょうが、同時にそれは、「親に従う必要はない。親をどう扱うかも、自分で選んでいい」ということです。

そういう「自分で関係を始めたことだから、自分で関係を終わらせていい」という意味合いです。

それは、「今までも自分で選んできたんだから、これからも自分で選んでいいよ」という許しを意味します。

 

ほら、何かに挑戦するときって、「挑戦しても、ダメだと思ったら撤退すればいい」っていうのが自由な人の考え方ですよね。

そういう感覚です。

 

元々は仏教思想をベースにしていた

この「自分で親を選んだ」という教えは、元々は仏教の教えに合わせた考え方のように思います。

仏教には、輪廻転生という概念があります。

で、これはそういう世界観がある人向けの教えです。

 

実際に、「自分で親を選んだ」という教えを得る時には、「人間の魂は、成長し続けるために輪廻転生を繰り返す」という教えもセットになっているはずです。

そういう輪廻転生的な土台がないと、「親を選ぶ」なんて言えませんからね。

そしてそういう教えが基盤にあることで、その「挑戦して、ダメなら手放せばいい」という教えが有効になると。

 

例えば私たちに「生まれる前の魂」があったとして、「自分で親を選んだ」と言っても、「正解を選べる」わけではないんですよ(笑

そりゃ生まれる前の魂なので、あまり頭もよくないし、さしてよく状況も理解できていないと(笑

頭がよかったら、そんな虐待するような親なんて選ばないんですから。

 

仏教思想が分からないと、理解できない

すなわち、私たちは確かに親を選んだけれど、「この親が当たりかどうかは分からなかった」と言えます。

で、「この親に挑戦してみたけど、失敗だった」と生まれてきた後で理解することで、「自分が始めた関係だから、自分が関係を終わらせればいい」とできます。

 

その上で、「自分なりに今世を生きて、徳を積んで見る目を磨けば、来世はもっといい親を選べて、よりよい人生になりますよ」ということですね。

これって、結構大きな救いじゃないかと思うんですが。

 

仏教の輪廻転生とは、そういう「現世で学び続けて、少しずつよくなっていけばいい」という世界観です。

だから、仏教ではカルマとか、前世の業(ごう)とか、因果とか、輪廻とか、そういう概念が結びついているわけです。

昔の人は、そういう仏教とか輪廻転生という考え方がベースにあったので、それに合わせたから「親を選んだ」という教えが機能したように思います。

でも、今ではそういう基盤もないので、合わないように思います。

 

まとめ

なので、「親ガチャ」と「子は親を選んで生まれてくる」も、どちらも「虐待するような親は、自分の意思で、親を捨てていい」ということを指します。

 

「親を自分で選んだ」と言っても、「だから親に無条件で服従しなければならない」ということを指すのではない、ということです。

「自分の意思で、決めていいよ。失敗もOKだし、それが現実だよ」

「今までも自分の意思で決めてきたんだから、これからも自分の意思で、対応を決めればいいよ」

「地獄からは出ればいいよ。自分から出ていいよ。親は地獄にいる人間なので、付き合う必要はないよ」

そういう、仏教が基盤になった教えです。

 

ただ、私の中では、「親ガチャ」という方が共感性があるので、こっちの方が現代に合う概念のように感じます。

私の中では、「久しぶりに素晴らしい概念が出てきたな!」というぐらい、これは多くの人を救いそうに思います。

 

ということで今日は、「親ガチャ」と「子は親を選んで生まれてくる」は同じ意味になる、というお話でした。

今日はここまで~。

 

(余談)

ちなみに、もちろん「世の中の大半の人は、虐待など受けていない。むしろ、親と仲がいいのが当たり前」です。

世の中の95%ぐらいの人は親とも良好な関係だし、98%以上の人は虐待を受けていないので、その概念が「大衆から受け入れられること」はないでしょう。

世の中のほとんどの人は、「当たりガチャ」を引いているし、「当たりで当然」と思っている人ばかりです。

 

健全な人に薬を与えると毒になるのと同じで、それは「大衆に向けて言うこと」ではないかと思います。

例えば大衆向けのテレビとかでは、「親ガチャなんて言葉を使うなんて、けしからん!」と言うでしょう。

ただ、それは「一部の人には大きな薬になるけど、大衆は飲んじゃだめだよ」と、大衆に向けて言っているに過ぎません。

 

そういう「自分は少数派だ」と客観的な位置づけが分かると、薬を薬としてうまく扱えるし、「大衆には理解されない」とあきらめられるかなと。

すると、反発も気にならなくなって、より健康的に周囲と付き合えるかと思います。

「親ガチャ」という教えには、「人には理解されないこともある。『みんなから理解されること』はあきらめよう」という教えをセットにしてもいいように思います。

 

まぁ、私自身は、「子は親を選んで生まれてくる」よりも、「親ガチャ」の方が、共感性があっていい概念のように思います。

すると、分かりやすい方を選べて、自由に対処できるかと思います。

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