今日は、人間心理のお話です。

「過去に人から拒絶された苦しみ」や「拒絶される苦しみ」は錯覚によって起こる、というお話をしてみましょう。

 

「拒絶される恐怖」、「拒絶された過去」をどう対処するか

「人から拒絶されることが苦しい」とか、「相手に落胆されると、苦しくなる」という人って、多いんじゃないかと思います。

それとか、「過去に人から拒絶された」、「相手に嫌な思いをさせてしまった」という記憶が、フラッシュバックとしてよみがえることもあるもので。

 

例えば採用面接とか、なんだか自分の存在価値を決められているようで、嫌じゃないですか。

もし断られると、「お前は必要ない」と言われたようで、心理的なダメージになるものです。

それとか、過去に自分の元を去って行った人がいたら、「自分がダメな奴だから、あの人は失望して去って行った」と感じていたり。

 

そういう「他者からの拒絶」とか、「落胆、失望を与えてしまったこと」が、私たちの苦しみになることがあるわけです。

実際にそういう場面をイメージすると、きゅっと胸が締め付けられるような、「自分の生命の危機」みたいな恐怖すら感じられるものです。

 

でも最近になってようやく分かったんですが、これは心理的な錯覚によって起きることなんですよね。

いわゆる、こじれによる錯覚なんだということです。

このメカニズムが分かると、拒絶される恐怖とか、過去の苦しみを解決できるかと思います。

 

その恐怖や苦しみは錯覚である

ならなぜ「拒絶される苦しみ」が錯覚なのか、ということです。

これは、自然の立ち位置から客観的に見てみると、その「拒絶されて苦む」という現象が奇妙であると分かります。

 

例えば私たちが、何か作品を作って売りたかったとしましょう。

で、「あの人にパッケージデザインを依頼できればいいな」と思って、初対面の人や制作会社に依頼して、だけど断られたとします。

すると、当然ですがショックですよね(笑

 

私たちは、いろいろ哀しみの感情を持つことでしょう。

「ああ、自分にはそんな価値はなかったんだ」とか、「自分に知名度がなくて、報酬を与えられなかったからだ。自分は劣った奴だ」とか。

人によっては、「許せない!」みたいに、怒りの感情になることもあるかもしれません。

 

ある意味、これらはどれも、「愛情の喪失」のような感覚だと言えるでしょう。

「受け入れて欲しかったのに、受け入れられなかった」という苦しみです。

 

なぜ「拒絶」と「愛情の喪失」を結びつけるのか

ですが、ここでちょっと冷静に考えてみましょう。

なぜ「断られたこと(他者の拒絶)」が「自分がダメな奴(愛情の喪失)」と、結びつけて考えてしまっているんでしょうか?

本来ならばそこに関連性なんてないのに、「拒絶、それは愛情の喪失」と、条件反射のようにとらえてしまっているんですよ。

それで、胸が張り裂けるような「自分にとっての生命の危機」という苦しみを感じているわけです。

 

これは特に、ビジネスのような場をイメージすると分かりやすいように思います。

私たちは「利益を作りたい」という動機で、相手に依頼をしたはずです。

そして相手は、私たちからすると初対面です。

そんな「利益を作りたい」で接した初対面の相手に、私たちは愛情も何も持ってないでしょ!(笑

 

つまり、相手に対して愛情なんてほとんど持っていないのに、断られると条件反射のように「愛情を失った」と感じてしまっているわけです。

同時に、それは「生命の危機である」という条件反射的な恐怖を感じていると。

 

もちろん、「期待した成果を得られなかった」という苦しみや落胆はあります。

だけどそれは「利益を作れなかった。(期待したイメージから見て)損をした」という落胆をすればいいのであって、「愛情を失ったこと(自分の生命の危機)」とは別物だと分かります。

これが、錯覚だということです。

 

「私は損をした」と言ってみるといい

だから単純な話、実際に以下の方法を試してみるといいでしょう。

例えば過去の拒絶された苦しみを思い出したときに、以前に語った「損切り」の方法論と同じように、「私は損をした」と言ってみましょう

これは理屈ではピンと来にくいので、実際に言葉を使って体験してみると、この錯覚に気づけるかもしれません。

 

例えば私の場合、私は過去に制作監督をやってましたが、監督とかやっていると、そりゃもう出会いも別れも多くあるわけです。

すると、結構そういう「失望されたダメージ」とか、「人が離れていったダメージ」みたいなものが蓄積していたように思います。

 

で、つい最近もその時のことを思い出して、苦しくなることがあって。

それで、ちょうど以前に「損切り」の方法論を語ったすぐ後だったので、実際に「損をしたなぁ」と言ってみたわけです。

そこでふと、「相手から拒絶された。自分はダメな奴だ」という思いと、「損をした」という思いのギャップに気づいたと。

「自分はダメな奴だという感覚と、損をしたという感覚、どっちが正常な感覚なの?」という戸惑いです。

 

それでようやく気づいて、「これが錯覚かーっ!」と、目からウロコで叫んでしまいましたから(笑

私は「自分がダメな奴」と「損をした」をごっちゃにして、錯覚していたわけですね。

 

同時に、その錯覚に気づいて、思わずぷっと吹き出して笑ってしまったほどです。

「なんだよ、私がダメだったんじゃなくて、私が損をしただけなんだ!」と分かって、「自分がダメな奴(生命の危機)」と「損をしたこと」の区別をつけられるようになったと。

それはただ単純に、「損をした」だけなんですよね。

「なんだ、自分がダメだったんじゃなくて、損をしただけなんだ。なんでこの錯覚に気づかなかったんだ!」と、思わず笑って脱力しましたから(笑

 

ただ単純に「損をした」だけ

実際に、それはただ単純に「損をした」だけでしょ。

私たちが採用面接で落とされても、依頼を断られても、誰かが私たちから離れていっても、失望や落胆をされても、それは私たちにとっての「損をした」だけです。

まぁこれは、「期待していた利益を得られなかった」という「イメージを基準にした損(利益にならなかった落胆)」でもあります。

 

私たちが利益を作りたくて行動して、だけど相手の都合でできなかっただけです。

相手は、私たちとは別の生命体です

そりゃもう別の生命体ならば、私たちとは別の都合や事情、価値観や打算、背反する損得関係を持っていて当然ですよね。

他の生命は、他の生命の事情で動いているんですから。

 

その「自分が利益を作りたくて行動したこと」と、「愛情を失うこと」とはまったくの別物です

 

きっとその背後には、「親から受け入れられないと、死んでしまう」という、幼い頃の条件反射のような恐怖があるからでしょう。

だから、条件反射のように「拒絶」イコール「生命の危機」と結びつけてしまうんじゃないかなと。

 

私はこの錯覚に気づいて、ようやく肩の力を抜けたように感じます。

もうほんと、この錯覚を理解できると、「損得で付き合っていただけなのに、なんで愛情の危機を感じなきゃいけないんだ」と笑ってしまいましたから。

 

まとめ

なので「過去に人から拒絶された苦しみ」や「拒絶される苦しみ」を抱えた場合、「損した」と言ってみるのもいいでしょう。

これは理屈だけでは分かりにくいので、実際に言って、そのギャップを感じてみるといいかと思います。

 

「その相手との関係」は、私たちが利益を得たくて作った関係のはずです。

それで見込める利益とは、お金だったり、性欲だったり、自尊心への欲求だったりするかもしれません。

そんな客観性に気づけると、「損得で付き合っていただけの関係」と「愛情」を結びつける必要はないと分かります。

 

確かに、「損をした(利益にならなかった)」という小さな部分では、落胆はあります。

だけど、この錯覚から抜け出すと、「損をしただけなのに、なんでそれ以上に苦しんでいたんだ?」と、今までの自分が奇妙に感じられますから。

 

これが分かると「ああ、幼い頃の環境で、錯覚をさせられていただけなんだ」と理解できるでしょう。

そういう錯覚を持っていたから、拒絶されることが恐怖だし、拒絶されたことがダメージとして残っていたんだと。

 

すると拒絶に対して「損をした」と受け入れられれば、その「損をした」部分で落ち込めばいいだけだと分かります。

このメカニズムを理解できると、そういう「拒絶の苦しみ」から解放されるかもしれません。

 

ということで今日は、「過去に人から拒絶された苦しみ」や「拒絶される苦しみ」は錯覚によって起こる、というお話でした。

今日はここまで~。

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