今日は、精神的なお話です。
「何もしなければ、無駄な一日になる」という発想から出る考え方がありそう、というお話です。
「何もしなかった日」は無駄な日?
「何もしなかった日」とか「何も作らなかった日」があると、「なんだか一日を無駄にしたような気がする」と感じることって、ありますよね。
実際に、何かを作るほど新たな豊かさができるなら、「作り続ける方が生産的である」って思うもので。
私とか、まさにそういう思いを持っていたんですよ。
それで、「何かをしなきゃいけない」、「意味あることをしなきゃいけない」と、ずっと走り続けていたんですが。
でも最近、そういう発想をしなくなりました。
いや、だからといって、今回はただ単純に「生きているだけで素晴らしいよ」なんて言うつもりはなくて(笑
やっぱり、何らかの価値は作りたいし、豊かにもなりたいし、豊かさを残したいものですからね。
それに、そういう「生きているだけで素晴らしいよ」的な内容は、「結局のところ、価値って何?」と問いかけると、結構簡単に導けそうな予感もします。
じゃあ、「何かをしなきゃ、一日が無駄になる」ということに対して、どう思うようになったのか、ということです。
で、最近は「種を植えていれば、育つのを待つのでもいい」と思うようになりました。
すなわち、「結局として実が実って豊かさが残るのなら、途中でどれだけ作業するのかなんて関係ないよね」と、成果主義的な考え方を多めに取り入れるようになった、ということです。
環境を作って、種を植えただけで、豊かさを与えてくれた
まぁ今までもそういう考え方は多少はあったんですが、きっかけは、今回の肝臓問題と、水耕栽培だったように思います。
ここ2ヶ月以上、私は肝臓に問題を抱えて、ほとんど動けない状態が多くありました。
なので、ブログ以外の制作はやめていたし、ある意味「何も生産的なことをしない日」ばかりを過ごしていたわけです。
いやまぁ本当は、肝臓のメカニズム調査とか、アレルギーの原因解明とかをしていたんですが。
でもまぁその辺はスルーして、「何もしてなかった」ということにしておいてください(笑
そんな風に、私は何も生産性のあることをしていなかったんですが、タイミングよく水耕栽培を試していたんですよ。
すると、私は何もしていないのに、レタスやバジルは育つし、トマトも花が咲き、実も実っていくんですよね。
まぁ肥料入りの水を補給することはしていましたが、基本放置なのに、食べ物が、豊かさが育ってゆくわけです。
で、私は「育ってるな」と眺めるのが大好きで、毎日しんどい中でも、ニタニタしながら育っている野菜を眺めていたりしたんですが(笑
動けない中でも、私の中では大きな楽しみで。
そして、うまく育った後で、私はおいしいリーフレタスや葉物野菜を得られて。
特に、当時は肝臓問題で食事制限や調味料制限をしていて、味の変化に乏しかったので、シソやバジルの風味にはとても助けられました。
一度種をまけば「育つ」って、いいな
そこで、ふと分かったんですよ。
「一度種をまくだけで『育つ』って、いいな」みたいな。
言うなれば、「育つ」と「作る」の違いですね。
「作る」というのは、自分が毎日何かをして、形にしてゆく過程じゃないですか。
一方で「育つ」っていうのは、育つ環境を用意して、一度種をまけば、どんどんうまく育っていく形になります。
で、結果から見たら、どちらでも豊かさができるんですよね。
毎日私が必死で作らなくても、この世界に豊かさを残すことができるわけです。
なら、「そういう『育つもの』を多く持ってゆくのでも、いいんじゃないの?」みたいに思ったと。
「育つ」世界では、「何かをしなきゃ価値がない」という常識はなくなる
すると、そういう「育つ」をメインにすると、「何かをしなきゃ価値が作れない」という常識はなくなるんですよね。
だって、必要な環境を準備して、「種」さえ植えれば、後は何もしなくても育つんですから。
むしろ、植えた後にごちゃごちゃと手を加えたり、肥料や水をやりすぎたりすると、逆効果になることが多くて。
なので、一度植えた後は、「育っていくのを楽しみつつ、待つ」ぐらいしかすることがないわけです(笑
ただ、そういう「育つものを持つ人」にとって、「何もしない一日は、無価値な日なのか」というと、そうではないと分かります。
だって、「環境を作って、種をまいたこと」自体が価値であり、「育つのを待って、実を収穫したり、次の種を得ること」も価値なんですから。
その「育つのを待つ間」では、特に何かをする必要はないと。
まぁもちろん、他の作物や水耕栽培システムを作ったり、別の制作をすることもできるでしょうが、それは「目の前の作物」とは違う次元の話です。
なので、「植えた種が育っているだけで、十分」という状態なんですよね。
不労所得の発展版、みたいな考え方
これは私の中で、結構大きなインパクトだったりします。
だって、「存在しているだけで、世の中に価値が増えていく」って、なんだかすてきでしょ。
まぁ、もちろん「じゃあ価値って何やねん」という哲学部分のツッコミはあるにしろ、そういう存在って素晴らしいですよね。
ある意味、不労所得の発展版みたいな考え方です。
私は不労所得という形が好きなので、今までも不労所得を作ってきたんですが。
でも今までは、言うなれば「作ったものが自動で動く」という、自動販売機のような、無機的なシステムを作るだけでした。
それが今回は、「私が理解できない部分での独自の意思を持ち、種を植えると勝手に育つ」みたいな、有機的な発展システムですね。
で、「そういうのって、おもしろそうだな」と興味を持ってしまった、というところです(笑
「育つ」のを楽しむという生き方
だいたい、育つのを見るのって、すてきですよね。
これは今回の水耕栽培だけでなく、以前に土の畑で野菜作りをしていた時も、野菜が日に日に育つのを見るのは大好きだったんですよ。
何というか、1日に何度も眺めて、ニタニタとできますから(笑
「これはこれで、楽しいな」ということです。
で、「そういう『育つ』のを楽しむ生き方も、おもしろそうだな」というお話です。
そういう状態だと、「何もしない日は、何も豊かさができない日だった」というしがらみはなくなります。
だって、「植えた種が、各自の意思で育っている」というだけで、十分な価値なんですから。
そして私は、育っているのを見て楽しめると。
「作る」から「育つものを持つ」へ
なので、これからは少し、「作る」から「育つものを持つ」に移っていこうかな、と思ってます。
この発想があることで、「存在しているだけでいい。その上で、豊かさを増やせる」と、より嬉しい状態になれるように思います。
言い換えると、「育つものを持つ」ということで、「より自由に、より豊かになれる」ということですね。
例えば私の場合、自転車でいろいろ出て、いろんな場所をウォーキングをするのが大好きなんですよ。
最近はコロナウイルスでしていませんが、プチ旅行をするのも好きで。
ただ、今までは心の中で、「何かを作っていなければ、価値はできないものだ。ウォーキングや旅をしている時は、生産的ではない」という思いがあったわけです。
だから、そういう「何かを作らない時間は、極力減らさなきゃいけない」と思い込んでいたんですが。
そして、その行動を正当化するために、「ウォーキングは健康のために必要だ」とか、「リフレッシュも生産性だ」とか言って、無理矢理納得させていたりして。
でも、「育つのを持つ人」であれば、そんな必要はないんですよね。
だって、植えた種が育つのを待つのも、一つの必要なことなんですから。
まとめ
そんなこともあって、最近は「育つ」ということに目を向けています。
「育てる」ではなく、「育つ」というのがポイントですね。
「育てる」は毎日何かをする必要がありますが、「育つ」は特に何もしなくていい、という次元の話です。
私は不労所得作りが好きですが、そういう「有機的な次元で育つ不労所得」もいいな、と思うようになりました。
そういう風に発想することで、より「存在するだけで価値がある」だけでなく、「存在するだけで、価値が増えていく」という、より自由で豊かな状態になれるかもしれないな、と思ったりもします。
ということで今日は、「何もしなければ、無駄な一日になる」という発想から出る考え方がありそう、というお話でした。
今日はここまで~。