今日は、精神的なお話です。

「弱者救済をするお金の使い方と、生き方の哲学」について語ってみることにしましょう。

 

「たった一人の子を助けたい」という欲求

某ニコニコ漫画でユーザー投稿漫画を見ていると、こういう漫画があったんですよ。

それは、奴隷の小さな子を買ってきて、いかにも悪人面(あくにんづら)な主人公が、優しくしようとするわけです。

でも、その子は主人公を見かけで恐れていて、一挙手一投足におびえるので、そのギャップが面白い、みたいな。

そしてその子は主人公の優しさに気づいてゆき、少しずつ心を開いてゆく、という内容なんですが。

これも、一種のテンプレかなと思ったりもします。

 

まぁおびえる部分のギャップはさておき、こういう「苦しんでいる一人の子を引き取って、喜ばせたい」的な物語ってよくありますよね。

「大勢の人たちを救う英雄」になるのではなくて、「たった一人の子を助ける」というスタイルです。

 

これは、共感性が高い人ほど、そういう「最も苦しんでいる、たった一人を助けたい」と感じるように思います。

というのも、共感性が高い人ほど、100通の「ありがとう」とか「面白かった」みたいな軽い感謝の言葉よりも、1通の心から感激した、深い感謝が喜びになるわけで。

だから、「さほど苦しんでいない子たち大勢を喜ばすのは、他の人に任せよう。自分は英雄になれなくてもいいから、一番苦しんでいる子から、一人一人助けたい」と感じます。

そして、そういう「最も苦しんでいる一人」を助けるほど、深い喜びが得られますからね。

そういうタイプの人が、そういう「最も苦しんでいる、たった一人を助けたい」という物語を好むように感じます。

 

日本では、弱者救済をする教えが少ない

ただよくよく考えると、日本ではそういう「どうやって弱者救済をすればいいのか」という教えがとても少ないように感じます。

実際に日本では、「弱者救済は国家やお金持ちがするものだ」と丸投げで、「弱い人たちを助けるのは、自分たちがするものだ」という感覚は少ないですよね。

まぁ日本は社会システム的には自由主義側ですが、性質的には社会主義的なので、そうなるのかなと思います。

 

一方で欧米では、性質的に自由主義的なので、国家は弱者救済を積極的にしません。

だから欧米では、個人個人が弱者救済を担うことになると。

すなわち、自分がどんな層でも、どんなに自分よりもお金持ちがいたとしても、そういう「弱者救済を、自分よりも強者にゆだねるだけ」ではない、ということです。

「自分がどんなに弱者でも、自分よりも弱者がいれば、わずかでも分かち合う部分を作って分かち合う」というスタイルなんですよね。

 

欧米での「一人一人が弱者救済をする」という教え

だから、欧米では「どうやって弱者救済をすればいいのか」という個人個人の教えがあるように感じます。

例えば有名どころでは、「ノブレス・オブリージュ(高貴な側の責務)」とか、「落ちた穂を拾うな」という教えがあります。

これは、「自分が収穫や収益を得たときに、すべて自分のものにしちゃいけませんよ。少しは気づかずに落としたままにしておいて、自分よりも貧民や弱者が拾えるようにしておきなさい」という、弱者救済のための教えです。

収益を得たときに、わざと寄付分を落としておいて、貧しい人たちが後で拾えるようにしておくわけですね。

 

それは収益を得る側からすると、「完全無欠な勝利を得る」ということを手放すことになります。

でも、「何かを得る」ことには、「得る側には、分かち合う責務もあるんだ」、「えげつなく総取りするのではなく、少しは残しておこう」という考え方です。

そしてそれが心の余裕を作り、自分よりも弱い子たちに優しくできるようになる、ということです。

 

他の例では、お金の使い方を家庭で教えることもあります。

例えばユダヤ人の場合、封筒を5つぐらい用意します。

そして、それぞれ「自分が短期で使う用」、「長期で自分が贅沢をしたり、夢や高額なものを得るための貯蓄用」、「周囲を喜ばせるプレゼント用」、「投資用」、「寄付用」みたいに、適度な割合を設定して保存しておくと。

そうやってルールを設定することで、感情に流されずに、きっちりしたお金の使い方ができるわけです。

 

「投資も寄付も当然するもの」という常識感覚

面白いのが、投資はまったく悪いことではないし、「寄付も当然するものだ」という感覚なんですよね。

特に寄付は、「収入の10%を寄付に割り当てる」という習慣があるようで。

これって、手取りが10万円の場合、1万円を寄付に割り当てることになるので、結構大きい額です。

 

でも、それが「ノブレス・オブリージュ(高貴な側の責務)」だし、「落ちた穂を拾うな」という意味なんですよね。

そしてまさにこれが、自由主義的な発想のように思います。

 

こういう教えがあると、「私は被害者だ。弱者側だ」と被害者ぶることはなくなります。

でも同時に、「収益を得る力があるなら、収益を得ればいい。そして自分が弱者を助ければいい」とできます。

強者に弱者救済をゆだねるのではなくて、「自分が自力で豊かになって、弱者を助ける」という発想です。

 

「他者にゆだねずに、自分が助ける」という発想

チャリティーを企画したり、参加するのも同じです。

クリスマスに教会に行って、子供たちの聖歌合唱を聴いて、お礼にクリスマスプレゼントを渡して来るとか。

そういう「自分よりも社会的な弱者がいる」という面に目を向けて、「自分でも少しは助けることができる」と実感できるシステムなわけですね。

 

そして、投資も、ビジネスで成功することも、ゆくゆくは寄付と同じことを意味します。

というのも、投資先が貢献して、より低コストで食べ物とか日用品を作れるようになると、それだけ弱者が救われますからね。

「自分に投資すること」も同じで、自分が成長して成功すれば、より弱者を助けられます。

ビジネスで成功すれば、同じようにそれだけ弱者を助けられます。

 

「自分が成功すること」と「他者を助けること」が背反しない、むしろそれらは「卵が先か、鶏が先か」という問題でしかないと分かります。

どちらを満たしても、長期的には相対する側も満たすようになる、ということです。

 

まとめ

なので、欧米にはそういう「弱者救済をするお金の使い方」みたいな教えがあるんですよね。

そしてそういう内容を知ると、「自分が弱者を助けられる」と実感できるんじゃないかと思います。

強者にゆだねるのではなくて、自分が助けられる、ということですね。

 

そのために、「弱者救済をするとは、どういうことか」を考えるといいでしょう。

すると、お金の使い方を考えることも、寄付したり、投資をしたり、自分のビジネスを成功させることも、どれも貢献になるんだと分かります。

 

で、私からすると、「無理に一定率の寄付をせずともいい」という考え方です。

「一定率の寄付をせよ」というのは、「特別な能力を持たない普通の人」向けの教えだなと思います。

そして、「寄付が好きな人は寄付をして、投資が好きな人は投資を、ビジネスが好きな人はビジネスをすればいい」というスタイルですね。

それは、個性のある人は個性に集中すればいいのと同じで、無理に「普通の生き方」や、「普通の貢献」をする必要はない、ということです。

例えば「物語作りが好きな人は、意味ある物語を作り、それを思いっきり分かち合って、希望を与える」、これも十分な貢献かなと思います。

 

そういう風に考えると、より楽になれるし、「自分にとって余ったものを、大いに分かち合おう」とできるかなと。

なら、喜びを実感しつつ、ビジネスをうまくしつつ、収益を得つつ、ファンも得つつ、弱者にも喜んでもらえて、「生き方そのものが、貢献になる」とできるかと思います。

 

ということで今日は、「弱者救済をするお金の使い方と、生き方の哲学」について語ってみました。

今日はここまで~。

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