今日は精神的なお話です。

「心の家を持つ」という考え方についてお話ししてみましょう。

 

「生きることって、なんでこんなにも疲れるんだろう」と感じる状態

「自分は頑張らなきゃいけない」とか、「自分を大きく見せたい」とか思うことって、ありますよね。

それとか、「何かを生み出していなければ、自分に価値はない」とか感じることもあるんじゃないかと思います。

 

例えば作品を批判されたりすると、深く落ち込んだりすることって、ありますよね。

逆に、褒められると嬉しいんですが、その喜びも一瞬で、すぐにまた競争世界に戻されてしまったり。

安らげる時間も場所もなくて、常に焦っていたり、悩んでいたり、恐怖に追いかけられていたり。

 

愛情を豊かに得て育った人、十分な愛情を得られずに育った人

「愛情を豊かに得て育った人」っているじゃないですか。

そういう人は、圧倒的な「私は私でいいんだ」という自信を持っているものです。

その人は、自分の特徴や人格を受け入れられて育ったから、「私はこの世界で生きていていい。世界から歓迎されている」という安心感があるわけですね。

 

でも一方で、愛情を受けられなかったり、誰かの条件を満たさなければ愛情を受けられずに育ってしまった人がいます。

その場合、「私はありのままの自分ではいけない」とおびえ、「周囲の人が望むような自分でなければならない」と思い込んでしまいます。

それは、その人の特徴や人格を否定されて育ったから、「私はこのままでは、この世界には受け入れられない」という不安感があるからです。

そしてひたすら、ありのままの自分を否定して、頑張り続けてしまうと。

 

「生きるのに疲れた」ことへの処方箋

このページを見ている方は、そういう「ありのままでいてはいけない」と感じる、まじめなタイプの方が多いと思うんですよ。

実際、「生きることって、なんでこんなにも疲れるんだろう」とかよく思ったりするんじゃないかと思います。

平穏が欲しくて、心から安らげる場所が欲しくて、でも得られなくて。

 

実は私自身もそうだったんですが、最近これについて衝撃的な出来事と、深い学びがあったので、それについてお話ししてみましょう。

それが、今日の本題でもある「心の家を持とう」ということですね。

 

ただ「在る」ことだけを目標にした生き方

先日も触れたように、最近の私は高い目標は設定せずに、ただ「在る」ことだけを目標にして生きている状態です。

簡単におさらいすると、私は数ヶ月前に、ちょっとした精神的にダメージを受ける出来事がありました。

それで1ヶ月ぐらい、内面で激しい綱引きを持ってしまって消耗してしまったわけです。

そこであまりにも疲れ切ってしまった私は、「今までの『考え方』を変える程度じゃ限界がある。もっと根本的なエネルギーを得ることが大切だ」と感じるようになりました。

そして、「考え方でどうこうするよりも、生命力を高めよう」ということで、筋トレをしたり、「この世界に、生命として存在するだけでいい(在るだけでいい)」と、目標を低く設定して動くようになりました。

 

すると、今ではこっちの方がパワーが出てるんですよ(笑

今の私にはこの「在る」というアプローチがぴったり合っていて、元気も出て全てがうまくいっているので、「もうしばらくは、このアプローチを続けてみよう」というノリだったりします。

日に日に勢いが出てきているので、もう楽しくてしょうがない状態だったり(笑

 

「在る」だけを目標にして、分かったこと

で、そういう「在る」だけを目標にして生きていると、分かってきたことがあるんですよ。

それが、「世間から切り離される場所」の大切さなんですよね。

 

先日も説明したように、ただ「在る」だけを目標にすると、世間と自分とが切り離されたような感覚になります

「自分は何も生産しなくていい。価値も与えなくていい。ただ生命を持続させればいい」となると、「働かなきゃ」とか「人に喜んでもらわなきゃ」とかいう焦りが霧散します。

すると、世の中は大きく流れているのに、自分だけが昨日の自分と同じ、一週間前の自分と同じ、一ヶ月前の自分と同じ……という、大きな流れから切り離されて、閉じこもった感覚になるんですよ。

 

で、実はこの「世間から切り離された場所」というのは、すっごい安らぎを与えてくれるわけです。

だって、世間のことを考えなくてすみますからね。

この場所では自分の価値だとか、周囲との比較や競争、劣等感はありません。

すると、心の底から「ほっとする」という状態になれるんですよ。

 

「自分だけの家」というイメージ

これは、「自分だけの家(もしくは部屋)」を持つことをイメージしてみるといいでしょう。

で、その家は絶対障壁で守られているので、誰も入ってくることはありません。

まあ私の場合、私を心から愛してくれた、大好きなばーちゃんだけがいる、というイメージを追加してますが、これはなくてもかまいません。

 

そして、例えば私はブログとかツイート、本などの作品を出していますが、そういう社会とのやりとりする部分は全て、「家の外にぽいっと放り投げる」という感覚です(笑

「みなさん、これをどうぞ」と家から少し離れた外(障壁の外)にぽいっと放り出して、外の世界の人に提供します。

で、その外の世界では、その作品に対して涙を流して喜んでくれる人もいるし、それに触れるのを毎日楽しみにしている人もいます。

また、逆に「なんで私には効果がないんだ!」と怒ったり、「なんで私には手に入らないんだ!」と嘆いている人もいます。

場合によっては、私が提供した作品を取り合ったり、それをきっかけに言い争いをして、激しい奪い合いや戦いをしているかもしれません。

 

混沌に満ちた「外の世界」、守られた「家の中」

「外の世界」というのは、そういう喜びとか哀しみ、怒りや憎しみ、競争や奪い合いが渦巻いている、混沌とした世界なんですよね。

一方で私は、「絶対障壁で守られた家(部屋)の中」にいるから、はっきり言うとそんなことどうでもいいんですよ(笑

みんなには喜んでもらいたいので、余った豊かさを「外の世界」に出していますが、外の世界の人がそれをどう使おうと私が知ったことではないと(笑

 

まあもちろん、当然私はできるだけ多くの人に喜んでもらいたいので、自分がきっかけで争わないように工夫はします。

でも思いつく程度の工夫はしたら、「それ以上は知ったことか。お前らの好きにしろ」って感じになると(笑

で、私は守られた家の中で、「ここは平和だなー」と、ほっくり(*´ω`*)しながら生きているわけです(笑

 

人によっては、これがすっごい無責任のように感じるかもしれません。

ある意味、自分だけが完全に守られた場所にいて、外の世界の苦しみに関与しないわけですから。

また、人によっては、「自分がきっかけで少しでも他の人が苦しんでいるなら、なんとかしなきゃいけない」とも思うかもしれません。

 

これが、愛されて育った人の感覚

でも実は、この「安心できる場所にいられる」という守られた感覚こそが、愛情を豊かに得て育った人の感覚だったんですね。

私は生まれて初めて、「ああ、これが愛されて育った人の感覚なのか」って分かりましたから。

 

愛されて育った人というのは、そういう世の中(外の世界)がどんなに混沌とした世界でも、自分は「守られている」という心のよりどころを持っているわけです。

心の中で、「母親だけは分かってくれる」とか、「あの家に帰れば安心できる」という、そういうよりどころがあるわけですね。

それは、混沌とした「外の世界」からは明快に隔離された、安心できる、守られた場所です。

 

愛されて育った人は、そういう安心できる場所があるからこそ、勇気を出して外に出て行けるんですよ。

いざとなれば、安心できる場所に走って戻ればいいので、だからこそ外へ出て行けるんだと。

そして、守られた場所があるから、外の世界に優しくできるんですよね。

例えば私たちが冒険をするのだって、「ここに帰ってくれば安全だ」っていう拠点があるから、思い切って見知らぬ世界に出て行けるわけです。

そして、そういう「ここは安全だ」という拠点を作れば作るほど、どんどん外の世界に出て行けるし、安心しつついろんなことをできると。

 

安らげる場所がなければ、力を求めてしまう

一方で、例えば私の場合、家の中でも安らげる場所はありませんでした。

母親の負担にならないように「完璧」にならなければなりませんでしたし、少しでも母親の希望通りにできなければ、明にも暗にも「どうしてお前なんか産んだんだろう」、「お前なんかいらない」というメッセージが飛んできました。

幼い私にとっては、それは死の宣告を受けるのと同じぐらい、恐怖を感じる出来事でした。

だから、たとえ家に帰ったとしても、全く安らげることがなかったし、心のよりどころなんてなかったわけです。

 

言うなれば、ずっと「外の世界」で生きざるを得なかったという状態です。

このブログを読んでいる方も、そういう環境で生きなければならなかった人が多いんじゃないかと思うんですよ。

 

だから、競争と争いの中(外の世界)で、居場所を確保しようとするわけです。

そのために、力(お金や地位、名声、成果、人脈など)を求めてしまうと。

 

大切なのは、まずは「絶対障壁で守られた家」を持つこと

でも、そうじゃないんですよね。

大切なのは「外の世界」で生き抜ける強い力を持つのではなくて、まずは「絶対障壁で守られた家(部屋)」を持つことです。

「外の世界」で居場所を作るのではなくて、「外の世界から切り離された場所」を作ることが大切なんだと。

 

で、そういう閉じこもれる場所を、精神的にも(できれば物理的にも)確保できるといいでしょう。

そういう場所にいれば、競争も比較もないので、本当の自分と向き合えるようになります。

すると、「自分はこうしたい」という、本当の欲求が見えてきます。

 

本当に欲していることをすれば、すぐに大きなエネルギーが得られる

そしてそれを実現すると、ちょっとしたことなのに、すごく元気が得られます

それは、「これを食べたい」とか、「体を動かしたい」みたいな原始的な欲求であることが多いかと思います。

まぁそれは当然で、「本当の自分が欲していること」をすれば、エネルギーが出るのは当然なんですよね。

ある意味、今までは「本当の自分が欲していること」ではないことをしていた、ということです。

「お金があれば、外の世界でも生きていける」とか、「そのために、地位や名誉が欲しい、人脈も欲しい、成果も欲しい」みたいな。

 

でも、「お金が欲しい」というのは、「本当の自分が欲していること」にはなり得ないんですよ。

だって、人類500万年の歴史の中で、都心部以外の人がお金を使うようになったのは、ここ200年ぐらいですからね。

ほとんどの人類は、ほとんどの期間を、お金という道具なしで生きてきたんですから。

すると、「本当の自分が欲していること」は、違うところにあると分かります。

そしてそれを満たしてあげれば、エネルギーが出てくるのは当然でしょう。

多くの場合、それはすぐ身近なことでできるものです。

 

まとめ

だから、まずはそういう「絶対障壁で守られた家(部屋)」を持つことが大切かなと思います。

最初は少し引きこもることで、疲れた心を癒やす必要があるでしょう。

でも、心が癒やされて、自分が欲する基本的な欲求を満たせば、ちゃんと「外の世界」に出て行きたくなります。

そしてそういう「安心できる場所」があるからこそ、力もつくし、挑戦もできる、ということですね。

 

そのために、ただ「在る」ということを目標にするのがいいかと思います。

すると、きっとこの感覚が分かってもらえるんじゃないかな、と思います。

これは私がこの1年で経験した、最もインパクトがある出来事でした。

「ああ、愛されて育った人は、こういう感覚で生きているんだ」みたいな。

 

是非これを味わってもらえれば、深い安らぎと共に、エネルギーが出てくるんじゃないかなと思います。

 

ということで、今日は「心の家を持つ」という考え方についてお話ししてみました。

今日はここまで~。

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