今日は精神的なお話です。
「拒絶されるのが苦手なら、自分でクオリティを高めるのもいい」というお話です。
拒絶されるのが苦手な人の戦略
ちなみに私は、「人から拒絶される」ってのが苦手なんですよ。
ほら、例えば「お願いしたのに断られた」とか、就職活動で不採用になったとか、新人賞とか何かの応募とかで落選したとか、いろいろありますよね。
私は結構そういうのに落ち込む性質なわけです(笑
こういう拒絶って、嫌な人は本当に嫌でしょ。
特に周囲の感情を理解できる人ほど、こういう拒絶は傷ついたり、落ち込んだりしやすくて。
実際、そういう人ほど、ドアからドアへの訪問販売営業とか、宗教の勧誘とか、クレーム対応とか、「絶対にやりたくない」と感じるかなと思ったりもします。
まぁ本当に切羽詰まったときとか、「誰かを助けるためだ」と覚悟を決められるのならいいんですよ。
でも、自分の見栄とか自尊心、小さな欲求のためだけに頭を下げるなんて、私からするとアホらしくて。
それで自分の生きるエネルギーが失われるなら、なおさらで。
「頭を下げずに、クオリティ高める」という生き方
そういう場合、「拒絶されるぐらいなら、自分でクオリティを高めて、必要な人に来てもらえばいい」と覚悟を決めるのもいいかと思います。
すると、「どうかお願いします」みたいに頭を下げる必要がなくなって、自分の得意なことに集中できるかと思います。
言うなればこれは、自分が頭を下げてお願いするのではなくて、相手から「ぜひお願いします。売ってください」と頭を下げに来てもらう、そういう形にすることになります。
そのために、クオリティを高めるわけです。
クオリティを高めれば、人は来る
で、私の中では、「クオリティを高めれば、確実に人は来る」という感覚です。
特にニッチで自分の好きな方向性を攻めるほど、クオリティを高めやすくて、話題にもなりやすくなるように感じます。
それは、ニッチであるほど必要なスキルを絞りやすいし、好きであるほど興味を持って向上できるからですね。
たまに「この人は技術レベルが高いのに、売れていない」という人がいますが、私はそれは「クオリティ」ではないと思っています。
例えば自然や風景をすごくうまく描けるのに、売れない絵描きがよくいるものです。
そこには、「きれいな絵を描けば、正確な描写をすれば、売れる」という勘違いがあるように感じます。
正確な情報を保存したいなら、わざわざ絵で作る必要はなく、写真で一発ですからね(笑
クオリティとは、哲学部分
私の中では、クオリティというのは、世界観であったり、感動であったり、そういう哲学部分だろうな、と思っていたりします。
たとえ正確さを求めるとしても、ただきれいに描くのではなく、正確さを徹底的に突き詰める姿勢かなと。
例えば「世界最小の歯車」だと、「100万分の1ミリグラムで実現している」という、徹底的なこだわりがあるわけです。
なら、「それぐらいの精度で作っています」と言えると、まったく変わりますよね。
ある意味、そういう「徹底的なこだわりが、人の心を打つんだろうな」とも思ったりもします。
だから、ただ「きれいに作れます、うまく作れます」というのでは、うまくいかないことも多いと。
一方で、「私はこういう部分にこだわっています」と哲学を持てるほど、クオリティも上げやすくなるし、感動も与えやすくなるように思います。
まとめ
なので、拒絶されるのが苦手な人ほど、「拒絶されるぐらいなら、徹底的にクオリティを求める方が、まだ楽だ」ということも多いように思います。
すると、覚悟を決めてクオリティに取り組めるし、頭を下げずにすむかなと思ったりもします。
もちろん、それは営業を積極的にしないため、ある程度の利益は失うでしょう。
でも、拒絶されてエネルギーを失うぐらいなら、「質素な生き方でもいい。頭を下げずに、必要な人だけに来てもらおう」とするわけですね。
その方が楽にできるし、さして苦しくもなく、むしろ毎日が面白くなったりして。
そういう生き方の方が、エネルギーを高く、幸せ度を高められることもあるんじゃないかなと思ったりもします。
私自身、こういうスタイルが好きだったりします。
ということで今日は、「拒絶されるのが苦手なら、自分でクオリティを高めるのもいい」というお話でした。
今日はここまで~。