今日も精神的なお話です。
「私には、不幸になる権利がある」と思えると、行動しやすくなることもある、というお話です。
「不幸になる権利がある」という言葉
少し前に、某有名人の結婚やら離婚やらで、話題になっていたんですよ。
その時に、こういうツイートがあって、印象深かったのを覚えていたりします。
それが、「あの人は、不幸になる権利がある」という言葉ですね。
だから、周囲が相手の行動をコントロールしようとしなくてよくて、その人に決断をゆだねればいい、みたいな。
これ、私の中では「いい概念だな」と思ったりもします。
そしてこの「不幸になる権利」という意味が分かると、より自由に行動しやすくなるように思います。
「不幸になってもいい」で幸せを得る
普通は、「幸せになる権利」とか、「幸せになりたい」じゃないですか。
それは当然で、私たちは幸せになりたいですからね(笑
でも、「不幸になってもいい」という発想の方が、実は幸せを得られる、ということもあるように思います。
特に、こじれを持っている場合には、「不幸になってもいい」という方向性が合うようになります。
実際に、こじれていることで、間違ったゴールを目指しているわけで。
例えば、「評価されなきゃ」、「親から認められなきゃ」、「受け入れてもらわなきゃ」とか思って行動しても、それを実現しても、達成した一瞬しか満たされないものです。
そういう場合、「自分に合う道」は、自分には「間違った道」だと認識されます。
そもそも何が幸せで、何が不幸なのか
すると、「そもそも何が幸せで、何が不幸なの?」ってことですよね。
例えば「みんなと同じように行動して、20歳から80歳までをすべて奪い合いに費やして、大勢から奪ってお金持ちになって、だけど朝から晩まで嫌なことをして生きる」というのも、ひとつの価値観でしょう。
でも、それが合わない人もいるわけで。
例えば「私は人と同じことはしたくないし、誰かひとりでも救えればいい。そして少数のファンに喜ばれつつ、田舎で静かに、自由に好きなことをして、自然に生きたい」みたいな人もいて。
幸せなんて人の数ほどあっていいし、「こうならなきゃ、幸せになれない」なんてこともないわけです。
むしろ、「こうならなきゃ」と焦ったり強迫観念を感じることほど、間違ったゴールであることが多くて。
そういう場合、「今までのゴールを手放し、違う生き方を目指すこと」は、「不幸になる道を選ぶ」と感じることがほとんどです。
なら、「不幸になっていい。不幸になる道を選ぼう」とすることで、自分に合う道を選べることもあるように思います。
「うーん、こっちは違うな」と、間違いつつ進むのでいい、ということですね。
まとめ
そういう風に、「自分は不幸になっていい」、「不幸になる権利がある」と思うのもいいかと思います。
これは特に、他人の価値観を植え付けられて、毎日頑張っているのに苦しい場合に効果的になりそうに思います。
そして、表面的な不幸を選ぶのではなく、人生で根本的な不幸を選ぶ方が、より効果的になるかと思います。
例えば、「親の期待を裏切る」とか、「自分の生き方を変える」、「今の環境から出て、負け組になる」それらを自分に許すことですね。
実際に、不幸になってもいいと思うんですよ。
そこに何らかの意味があれば、私は「意味があるから挑戦する」でもいいと思います。
たとえ社会的に成功できなくても、見栄を張れなくても、バカにされても、自分の中では「価値がある」と感じているんですから。
大多数の人に評価されなくても、たったひとりでも意味あることができれば、それでいいんじゃないかと思います。
そういう「我が道を行く」という生き方も、いいかなと思います。
ということで今日は、「私には、不幸になる権利がある」と思えると、行動しやすくなることもある、というお話でした。
今日はここまで~。
余談
ちなみに、これは他人へのコントロールを手放すことにも使えそうに思います。
「あの人は、不幸になる権利がある」と思うことで、「失敗してもいい」と許せますからね。
すると、あれこれ口出しすることを抑えられて、相手の成長とかフィードバックを信頼して、相手の人生を相手に任せられるかなと思います。