今日は、可能性を知るための、精神的なお話です。
理由なんてなくても、人生はノリで変えていい、というお話です。
ルワンダでタイ料理店を開いた人の記事
今日のネタ記事。
「ルワンダでタイ料理屋!?」シングルマザーの選択 「異世界転生」級に人生リセットして得たもの(東洋経済オンライン)
記事の内容は、日本人のシングルマザーが、アフリカのルワンダでタイ料理を開いた、というお話です。
これの面白いところが、「なるほど、そういう道をたどると、そうなるよね」という要素がまるでないところですかね(笑
すなわち、「特に意味はないけど、ルワンダがよかったな。特に意味はないけど、タイ料理だった」みたいな連続で。
そして人生っていうのは、こういうノリでもいいようにも思います。
すなわち、必然性とか意味みたいな理由を作らなくても、人生はノリで変えていい、ということです。
「人生を考える」って、どういうこと?
そもそも、「人生を考える」って、どういうことなんでしょうか?
私たちは未来を予測できるわけでもないし、未来がどうなるか分かるわけでもありません。
それに、変化はいつも突然だし、今までまったく興味がなかったものを、突然好きになったりすることがあるわけです。
そして、そういう「好きになる」みたいなことに、「過去がどうだったから」とか理論付けをする必要もなくて。
「ある日、ここのカツカレーを味わったら最高においしくて、それ以来カツカレーにはまった」レベルで、無意味に人生は展開していいと思うんですよ。
すなわち、人生の展開をあまり難しく考えなくてもいいし、「過去がこうだったから、未来はこうならなきゃいけない」ということでもない、ということですね。
未来が決まることではなく、未来を考えることが面白い
ちなみに私はつい未来を考えるタイプだし、未来を考えるのが好きなタイプだったりします。
でも、「未来の自分がどうなるか、明快に決まって見通せる方がいいか」と問われると、明らかに「ノー」ですからね。
もしそれを実現したいなら、決められたレールの上を歩けばいいだけですし、そっちの方がはるかに簡単で。
ある意味、「未来はどうなるかな」と、あれこれ考えて、対応することが面白い、みたいなものです。
言うなればそれは、ミステリー作品を読むようなものですね。
最初からトリックや事件の真相が分かっていたら、面白くありません。
それを、現実に与えられたヒントの数々から、「これがどうなるんだろう?」といろいろと組み合わせて考えて、そこで答え合わせをするのが面白いと。
「理由」なんて、すべて後付けでしかない
そういう生き方だと、「理由」なんて、すべて後付けでしかないんですよね。
すなわち、「物語が進みつつある今、何を得るのか」という部分では、意味なんてさして重要ではないと。
「とりあえず、これを得た」、「とりあえず、流れでこれを手放すことになった」、そういう連続でもいいと思うんですよ。
同じように、「生きる場所を、ルワンダに移すことにした」とか、「生きるために、飲食業をすることにした」みたいなものでもいいように感じます。
裏を返すと、「私はこれまでこうしてきたから、未来はこうしよう」なんて、とても制限がある考え方ですよね。
だって、未来は過去とはまったく関係のない部分にいろんな可能性があるのに、わざわざ過去で制限しているんですから。
もちろん、過去の延長で選ぶのも、多少は学習コストが低くなるので有利になるかもしれません。
でも、新たに学んだり、試行錯誤することもできるなら、そっちでもいいように感じます。
むしろ、新たにやる方がモチベーション高くできるのなら、学習コストなんてすぐに取り返せますからね。
簡単に言うと、「無理に過去にしがみつくよりも、適当に新たな生き方をする方が、エネルギーが出ることがある」ということです。
まとめ
そういう意味でも、未来の選択に対して、あれやこれやと意味とか意義なんて難しく考える必要はないように思います。
むしろ、「特に意味はないけど、ルワンダで。特に意味はないけど、タイ料理をやってみよう」みたいなレベルで目的地を決めるのでもいいように思います。
ゴールの設定なんて、そんなものでいい、ということです。
だいたい、ルワンダで生きようが、日本の都会で営業をしながら生きようが、どっちも生きることには変わりませんからね。
それなら、「ルワンダの空気はなんかよかったな。なら、なんとなくルワンダ」ぐらいのノリで、生き方を決めればいいように思います。
そんな中で、自分なりに進んでゆければ、それでいいかなと。
そういう風に選べると、より「なんとなくこういうのがいいな」みたいなノリで、より制約なくゴール設定をできて、動きやすくなるかもしれません。
ということで今日は、理由なんてなくても、人生はノリで変えていい、というお話でした。
今日はここまで~。