今日は、思いっきり精神的なお話をしてみましょう。
「教え」から離れる時間を取ると、ほっとできる、というお話です。
疲れがひどかった原因
実は今の家に引っ越してきてから、なんか調子がよくなかったんですよ。
特にここ数ヶ月は、ちょっとした精神的ショックな出来事もあって、疲れがひどくて。
それで筋トレとかビリーズブートキャンプを始めたり、ただ「在る」ということを目標にしたりと、いろいろ模索していたんですが。
で、ようやくその根本的原因らしきものが分かりました。
食物アレルギーが原因でした。
「去年に引き続き、今年もアレルギー発覚かよ!」とか言われそうですが(笑
この家に引っ越してきてから、台所が少し生活と切り離された場所にあることで、食事スタイルが変わった上に、単調な食事になっていたんですよ。
それがアレルギーと疲労を引き起こして、調子が悪くなっていたと。
数日前にこの原因を突き止めて、食生活を改善することで、現時点ではだいぶ復活してきました。
この食物アレルギーのメカニズムと対処法については、またいつかお話することにしましょう。
今日は、その疲弊した状態で分かったことのお話です。
ただ「在る」ということだけを目標にした生き方
復調してきた今でも、ただ「在る」ということを目標にした生き方は続けてます。
この生き方というのは、簡単に言うと「大きな目標」を持つのではなくて、「自分が存在すればいい」という程度の目標に下げることですね。
すると、「周囲や社会」と「自分」が切り離されたような感覚になります。
周囲や社会はめまぐるしく変化しているのに、自分だけが閉じこもって、その大きな流れから切り離された感覚ですね。
この社会の流れから切り離された感覚が、「安らげる場所」なんですよ。
愛されて育った人は、心の中にこういう「世間の厳しさからは切り離された、安らげる絶対領域」を持っているわけです。
それは言うなれば、「疲れても、ここに戻れば安全だ」という心の拠点を持つことと同じです。
そういう拠点(心の家)があるから、リスクを冒してでも冒険に出ることができるわけですね。
すると、「強くならなきゃ」とか「周囲を変えなきゃ」と強迫観念のように求める必要がなくなって、安心して外の世界に打って出ることができると。
「教え」から離れることで、安らぎが手に入る
これは言うなれば、全ての「教え」から離れることを意味するわけです。
「教え」から離れることで、安らぎが手に入る、ということですね。
ほら、よくある教えとして、「感謝しなさい。すると幸せが得られますよ」とかありますよね。
一方で、「在る」だけで得られる安らぎはそうじゃなくて、その「感謝しなさい」という教えそのものから離れる感覚です。
すなわち、「別に感謝しなくてもいいんだ」と自由になると。
私の場合、今までは夕食でも「感謝して食べよう」とその教えに従っていたわけです。
でも、「在る」だけでいいのであれば、無理に感謝しなくていいですよね。
そして「無理に感謝しなくていい」と分かると、自分を偽らなくてすむので、ほっとするんですよ。
そのほっとしたときに、「このブリの照り焼き、おいしいな」と味わえたわけですね。
安心して味わえたから、感謝ができたと。
まとめ
そういう風に、全ての「教え」から切り離されて、自分軸に立ち戻る感覚です。
よくよく考えてみると、「教え」というのは全て、他人軸になるものです。
なぜエネルギーを失っていくのかというと、自分軸が発揮できない状態(「本当の自分が欲すること」ができない状態)だからですよね。
なら、エネルギーを失ったときには、世間から切り離されるだけでなく、「教え(全ての他人が言っていたこと)」からも離れてみましょうと。
すると安らげて、結果として教えの効果が発揮される、ということです。
そういう風に考えると、疲れた時でもエネルギーを取り戻せるかもしれません。
今回の疲労では、これ以外にもいろいろ学んだことがあるので、それもおいおいお話ししていくとしましょう。
ってことで、今日は「教え」から離れる時間を取ると、ほっとできる、というお話をしてみました。
今日はここまで~。