今日は精神的なお話をしてみましょう。
「みんなと同じ生き方をする必要はない」、というお話です。
人生で迷ったときは、立ち止まって考えてもいい
先日、ある学生さんのことを聞いたんですよ。
その方は大学3年生で、就職活動を前にしていたと。
でも、「このままみんなと同じ生き方でいいんだろうか?」と就職活動に疑問を持って、悩んで、そして「未来を考える猶予」として一年ほど海外留学をさせてもらったと。
そして今、海外の日本人が全然いないような場所で、一人で暮らしている、という状態のようで。
ついでにお約束のように、「和食食べたい!」と言っているようでしたが(笑
私はこういう「考える時間」というのを持つのも、いいと思うんですよ。
何も考えずに流されるよりかは、立ち止まってみるのもいいかと思います。
人生には、そういう岐路のようなものがあるように思います。
そしてそこでは、一度立ち止まって考えてもいいと思うんですよね。
ちなみにはっきり言うと、立ち止まって考えても答えなんか見つかりませんし、時間の無駄です。
でも、その「無駄」があってもいいように思うんですよ。
何というか、「人生は生産的でなければならないの?」ということに疑問を持つ、ということですかね。
そして私は、そういう「非生産的な時間」を持つことが、人としての深みや厚みを与えるように思います。
すっごく矛盾しているような表現ですが、分かる人にはこの感覚が分かるかなと思います。
私が立ち止まったときのお話
私自身も、今まで何度も迷って、立ち止まって考えてきました。
就職活動の時、ゲーム開発で独立後に、売り上げの先細りから開発を休止すると決めたとき、FPSゲームのオンライン版で大失敗して、方向性を失ったとき。
そういうときは、うちひしがれて、立ち止まっていました。
立ち止まるというよりかは、「どっちに歩けばいいのか分からない」というのが本音でしょうかね。
これは言うなれば、渋谷の交差点のど真ん中で、立ち止まるようなものです。
立ち止まれば人にぶつかるし、周囲の目を見ると、「何してるんだ! 歩け!」と罵声を浴びせらているようにも感じるものです。
そして、今まで同じレベルだと思っていた人や、後発の人に、どんどん追い抜かれもします。
すると、立ち止まっている自分がとても無価値で、「社会から落ちこぼれていっている」ように感じるんですよ。
置いて行かれる不安というか、このままだと自分がひとりぼっちになってしまうのではないか、みたいな恐怖ですかね。
だから焦ってみんなと同じ方向に行こうとしたり、今までのことを「頑張って」続けようとする人が多いんですが。
言うなれば、自分の軸で選ぶのではなくて、他者の軸で歩いてしまうと。
「好きなことで挑戦している人たちの社会」に触れると、好きな道を選べるようになる
そういうときでも、私は私なりに、自分の軸を持って道を選ぶことができたように思います。
なぜそれができたのかというと、「好きなことで挑戦している人たちの社会」に触れることができていたからかな、と思います。
私は大学時代まで、人生で何をしたいのかは分かりませんでした。
で、「とりあえず大学に入ってから、生き方を決めよう。もし大学3年生の就職活動時までに決まらなければ、そしてもし嫌なことをして一生を生きることになるなら、自殺すればいいや」と思ってました。
文字通り、「嫌なことをするなら死んだ方がマシ」という考え方ですね(笑
それぐらい、嫌なことはしたくなかったと。
でも運がいいことに、大学時代にゲーム制作と出会ってのめり込んで、「こういう制作をしながら生きて行けたら、最高だよな」という夢を得ることができました。
で、そのときに、同じクリエイター仲間たちと、よく同人の即売会ついでに飲み会とかオフ会をやったんですよ。
ネットでもやりとりをしていたので、とてもいい仲間たちだったんですが。
私は一流大学に通ってましたが、そこでは学歴とか年齢とかは関係なくて、ただ単純に「これが好き」でつながっている社会でした。
特に親しかった仲間たちは、ほぼ同年代でしたね。
音楽の専門学校に通いながら音楽を作っている人もいれば、高卒で就職してKeyでグラフィッカーをやってる人とか、高卒無職だけど、ゲーム用シナリオを書いている人とか。
でも、例えば高卒無職2年目だからといって、それで落ち込むようなことはないんですよ。
仲間はみんな関西人(私だけが山口の田舎から神戸に出てきた人)だったので、なんか自分のダメなところでも、ネタにして笑い飛ばせる勢いがあるんですよ。
山口県出身の私から見ると、関西人って、それぐらい笑いにするのがうまいと(笑
「可能性」に対する無知
で、みんな不思議と、「俺たちはこのままじゃ終わらない」というエネルギーと、妙な自信を持っていました。
ある意味、それは若さから来る無知なのかもしれませんが、私にはその「無知」は「可能性」とも言い換えられるように思います。
だって、分かるはずがないでしょ?
自分の未来が、どれほどまで可能性があるのか。
欲しいものを、欲しい人生を、欲しい生き方を、どれだけ手に入れられるのか。
自分の実力で、どこまで行けるのか。
そして、それがいつ開花するのか。
そんな小難しいことを、当時20歳ぐらいの若者たちが理解できるわけがないんですから。
むしろ、「それを知っている」という人ほど、なんか嘘っぽいような気がします。
それが20歳であろうが、30歳であろうが、50歳、80歳であろうが、何が違うと言うんでしょう?
私はこれまで、いろんな原理や理論、未来や過去の出来事を理解できるようになってきましたが、未だにこの「自分の可能性」ほど理解できないものはないように思います。
私たちは、未来を知らない。自分の可能性を知らない。どこまで行けるのか、知らない。
「知らない」でいいんだ、と知ったとき、なんか吹っ切れるものがあったように思います。
特に、「俺は普通の社会からはドロップアウトしたよ」と吹っ切れている人ほど、すがすがしい明るさがありました。
それもそうで、迷いを断ち切れば、後はありのままを受け入れるだけですからね。
もちろん、みんな何かしらのしがらみを持っているものです。
お金の問題、家族や親類の問題、実力や境遇の問題、いろんなものを抱えてました。
でも、彼らはそれを笑い飛ばしつつ、自分で自分の道を選んでいたんですよね。
まとめ
そういう経験があったからこそ、私は「立ち止まっていいんだ」と思うようになったんだろうと思います。
交差点のど真ん中で、どっちに進んでいったらいいのか分からない。
みんなは自分を追い越していって、自分だけが取り残されているような気がする。
自分だけが落ちこぼれていって、無価値な人間になっているような気がする。
だから焦って、今までの延長線上に進もうとしてしまう。
でも、あの「俺は普通の社会からはドロップアウトしたよ」というすがすがしい笑顔を思い出すと、「そっちでもいいんだ」と許可が得られるんですよ。
多くの人が進む、「顔をしかめてストレスを抱えている道」か。
それとも、ほとんど誰も進んでいないけれども、でもごく少数が進んでいるような、「ドロップアウトを自認しているけれども、すがすがしい笑顔を浮かべている人が進む道」か。
もし、私が選べるなら、どちらを選ぶのか。
選ぶ場合、私は常に一度、立ち止まって考える必要がありました。
で、私は独立後、大失敗をしたときや、岐路に立たされたとき、常に「自分が行きたい方向」を選ぶようになりました。
それは常識では「ばかげている」と評価される道かもしれませんが、私は「それでいい」と受け入れて選んでいたと。
「やれやれ、またこんなしんどい生き方をするのか。でもいいか、自分で選んだことだし、やりたいことだし」
そんな感覚で生きるようになると、自分の中から膨大なエネルギーが出てくるんですよ。
すると、普通の人では「ありえない」、「耐えきれない」ということでも、気がつくと楽にできちゃっていたりするんですよね。
「嫌なのに強制される痛み」は少量でも苦痛ですが、「自分で選んで、受け入れた痛み」は、大きくても大丈夫なように思います。
だからこそ、全身全霊で生きられるんだと。
そしてそういう道にこそ、本当に理解しあえる人たちがいるように思います。
そういう生き方もいいんじゃないかな、と思います。
立ち止まって、自分の魂で考えて、生産的ではないように見える時間を過ごしてみると。
今では私は、そういう「非生産的な時間」が、実は最も「生産的な時間」じゃないかと思っていたりもします。
ということで、今日は「みんなと同じ生き方をする必要はない」というお話をしてみました。
今日はここまで~。