今日は、精神的なお話です。
「自由になりたい場合、生活に必要なものほど自給率を上げよう」、というお話です。
外食をする方がいいか、自炊をする方がいいか
このブログは「好きなことをして自由に生きよう」という方向性でいろいろ語っていますが、やっぱり自由って欲しいですよね。
なので、ここ最近では「最低限生きられる環境を先に作って(自由を確保して)、そこから豊かさを広げよう」という方向性で説明をしているんですが。
で、少し前に、こういうツイートを見たんですよ。
それは、「少なくとも一人暮らしの場合、自炊をするよりも、外食する方がコストは低くなる。だから自炊なんかしない方がいい」という内容です。
実は都会においては、実際に外食をする方が、安上がりにできることが多いものです。
特に一人暮らしの場合、外食だけでもいいように感じることも多いでしょう。
でも、もし自由を得たい場合、自炊だけでなく、家事などもできるだけ自分でできるようになって、「自給率を上げる」ことをおすすめします。
特に、生活に必需なものほど自給できるようにしておくといいでしょう。
じゃあなぜ自由になりたい場合、必需なものほど自給率を上げる方がいいのか、そのメカニズムをお話ししてみましょう。
「外注」と「自給」をどういう判断で扱えばいいのか
これは、「外注」と「自給」をどういう判断で扱えばいいのか、というお話になります。
外注する方がいいことが多いし、でも自給にする方がいいこともあると。
じゃあどういう区分で外注と自給を分ければいいのか。
それが、次のような区分けになります。
自由を増やしたい場合は、必需なものから自給を増やす。
コストを削減したい場合は、不要なものから外注を増やす。
そして、この両者は矛盾しません。
すなわち、「自給を増やして自由を得つつ、外注を増やしてコストも削減する」ということもできます。
じゃあなぜそうなるのか、見てみることにしましょう。
外注をすることで、コストが削減できる場合
先述したように、都会であるほど、そして一人暮らしなどの少数になるほど、外食をする方がコストは低くなる傾向にあります。
外食だけでなく、クリーニングとか住居の維持とか、家計管理の経理とか、セキュリティとか、ビジネスの作業とか、いろんなことを外注する方が安上がりになります。
例えば食事にしたって、自分で作る場合、必要な食器や調理器具をそろえたり、ある程度のキッチンも必要で、だから家賃も増えるし、光熱費も必要になります。
何より時間を取られるのに、さほどおいしくないわけです(笑
でも、都会であるほど、「それを専門にする人」が身近にいます。
すると、そういう人たちは良質な素材を安価で大量に仕入れて、専門の人が専門の器具で大量に作ることで、圧倒的に効率よく食事を作れるんですよ。
なら、「自分で作るコスト」よりも、「他者に作ってもらうコスト」の方が安くなります。
そのため、外注をする方がコストは削減できます。
「そのためにお金が必要になる」という落とし穴
ただ、これには大きな欠点があって、「そのためのお金が必要になる」ということになるんですよね。
そのお金を、既に大好きなことで稼げているのであったり、不労所得でノータッチで入ってくるのれば、それでいいんですよ。
でも、もし嫌なことをしてお金を得ている場合、嫌なことからは逃れられなくなります。
それは、社会システムに組み込まれてしまうからですね。
言うなれば、「私はこれだけを専門にします。だから他の専門は、他の人がお願いね」とすることで、広く効率化してトータルのコストを下げるわけです。
だから社会では、社会のシステムに組み込まれるほど、コストは削減できます。
でも、当然「歯車になる」ので、自由はできなくなります。
その上、「社会システムに組み込まれる」ということは、周囲の影響(景気)に左右されることになります。
もし周囲が好景気なら、自分もその恩恵を得られるのでいいことなんですよ。
でも、もし周囲が不景気になったら、自分まで不景気になってしまうと。
だから、社会システムに組み込まれるのは、「自由(自分のコントロール)を犠牲にする代わりに、他者の豊かさを得る」とも言えるでしょう。
自給部分を失うと、奴隷になりやすくなる
すると、自由を大切にする人ほど、「お金が安くできるから」という理由で社会に組み込まれるのは、危ういことだと分かります。
というのも、自給部分を失うと、奴隷になりやすいからですね。
そして、自分にとって必需なものを自給できなくなると、特に奴隷に陥りやすくなります。
これは、国家レベルで見てみると分かりやすいでしょう。
大航海時代以降、欧米諸国の先進国はアフリカや東南アジアを次々と植民地にして行きました。
そこで彼らがどういう植民地政策をしたのかというと、「植民地の自給する方法を破壊した」わけです。
植民地では、小麦とか大豆みたいな生活必需品の栽培を禁じて、コーヒーとかカカオ、綿花のような、必需品ではないものを作らせました。
実際、アメリカやイギリス、フランスのような大国ほど、小麦や大豆などの大切なものは、自国栽培していますよね。
それは、そういう主要品目を植民地で栽培させると、植民地から「言うことを聞かなければ、小麦の出荷を止めるぞ」と脅されると太刀打ちできなくなるからです。
先進国は、必需品ほど自国で栽培することで、優位性を保てるわけです。
なら、植民地の力を失わせるには、その逆をすればいいと分かります。
植民地は自給手段を失うことで、先進国から小麦や大豆などの主要品目を買わなければならなくなります。
一方で、コーヒーやカカオなどの価格決定権は、先進国が持っています。
生活にはさほど必要ではないので、先進国はそれらを多少我慢しても、致命的にはならないからですね。
でも、植民地にとって、コーヒーやカカオの売り上げを失うのは、致命的になります。
だって、既に自給手段がないからですね。
だから、「生きるためにお金が必要」だけれども、「どれだけお金を得るかは、先進国が決める」という形になり、自分の豊かさを自分で決めることができなくなります。
「自給手段を手渡す」ということは、自分の生命線を相手に渡すのと等価です。
こうして先進国から「生かさず殺さず」とされて、植民地はシステムに組み込まれる限り、永遠に豊かになれなくなった、ということですね。
「自給できなくなる」は奴隷化と隣り合わせ
別の例で言うと、ODA(政府開発援助)も同じです。
先進国は、途上国のインフラ作り(道路や橋の建設とか、河川整備など)を支援しています。
一見、これは無償の寄付みたいで、素晴らしいように見えるじゃないですか。
でも実際のところは、先進国政府が途上国にお金を払って、自国(先進国)の業者に発注させているわけです。
すると、確かにインフラは整うんですが、途上国の建設業界は育ちませんよね。
育つどころか、どこも廃業して、自給率が失われると。
こうして食料だけでなく、建築という主要産業においても自給手段を失って、ますます先進国のシステムに組み込まれて、奴隷化されてしまうと。
なので、「お金が安いから」、「無償支援が得られるから」ということで、自給率を明け渡すのは、リスクがあることだと分かります。
それは、生活に必需なものほど、奴隷化のリスクが高くなります。
ならば、自由が欲しい場合とか、周辺諸国の動乱に巻き込まれたくない場合、「自給率を高めて、自国産業を育てる」というアプローチが有効になりそうだと分かります。
「家事を自分でできるようになる」というのは、「自国の必需産業を育てる」のと同じです。
すると、奴隷化されるリスクは低くできると分かります。
同時に、外注は必需でないものから、割に合うものをどんどんすればいいわけです。
例えば同人誌でも、当然ですが、執筆という必需は自分でやりますよね。
でも、印刷とか配送みたいな主要ではないものは、割に合う場合だけ印刷所や配送会社に外注すればいいわけです。
こうして「自給を増やして自由を得つつ、外注を増やしてコストも削減する」ということが実現できます。
まとめ
そんな風に、豊かになるには、「外注する」と、「自給する」という二つのアプローチがあります。
でも、「お金が安いから」で自炊とか家事みたいな生活土台を外注すると、その生活土台を成り立たせるためにお金を稼がなくてはならなくなります。
すると、社会システムに組み込まれてしまって、奴隷化されやすくなって、なかなか抜け出せなくなると。
だから、外注するのは、「生活には不必要なもの」からが基本です。
食事や家事など、生活に必要なものほど、自給する方がいいでしょう。
特に、自由が欲しい場合や、社会や周辺の人たちと距離を取って生きたい場合、自給率を下げるのは怖いことだと分かります。
それに社会システムに組み込まれていると、周囲が同時に不景気になった場合、もろに悪影響を受けます。
なので、クリエイティブにその場から豊かさを作り出せる人ほど、強烈な不景気でも、さほど変わらず楽しく生きられるんじゃないかと思います。
ということで今日は、「自由になりたい場合、自給率を上げよう」、というお話をしてみました。
今日はここまで~。