今日は、精神的なお話です。
SNSで人づきあいに疲れない考え方、というお話です。
SNSでは、どこまで人づきあいすればいい?
先日、こういう質問をいただいたので、ご紹介。
友達の定義というものは如何なように思われますでしょうか?
大人になってから増えた趣味仲間も多く、繋がりの繋がりが更に繋がっていて…みたいな感じでして(笑)
繋がりが出来たからにはお付き合いしなければ…!と思う自分がいてそう感じてしまうのか…。
どうやら私は主に1人でいるのが好きな人種のようなので、群れるタイプの人達とは合わないのかな…と感じている部分でもあります。
SNSでは、こういうのってよくありますよね。
趣味でブログをやっていたり、TwitterとかFacebookをやったり、絵とか作品を公開すると、なんかやたらと人が来るようになったりするわけです。
で、「多くの人とつきあえる方がいい」っていう思いと、「もっと静かにやりたい」っていう思いがあって、「どうしたらいいんだ!」みたいな。
作品制作で成功する人が、よく抱える問題
こういう悩みは、作品制作で成功するタイプの人が、作品を公開し始めた時によく起こるものです。
影響力のある作品を作る人は、どんどん趣味仲間ができたり、見知らぬ人からフォローされたりするわけです。
で、見知らぬ人から感想とかいろんなメッセージが来て、時間を取られてしまって。
最終的にこんな風に、「多くの人とつきあえればいいけど、つきあいたくない部分もある。どうしたらいいんだ!」と悩むと。
実は、売れてくると、人脈は制限する必要があるんですよね。
だって、「人づきあいが重要だ」とファンレターの全てに返事をしていても、それで原稿や作品を作れなくなったら、本末転倒ですからね(笑
だから「人脈は広ければ広いほどいい」じゃなくて、実際は「売れれば売れるほど、より多く制限しなければならない」わけです。
なら、どうすればSNSで人づきあいに疲れずにすむのか、今日はそんな考え方についてのお話をしてみましょう。
SNSは「手紙」ではなく「番組」ととらえる
結論から言うと、SNSでは「一人一人と付き合う」というよりも、「私は一つのテレビ局を持っているんだ。これは私の番組なんだ」と思うといいでしょう。
もう少し具体的に言うと、TwitterでもFacebookでも、「双方向でやりとりする手紙の集合体」ではなく「基本は自分から視聴者への一方通行の番組だけど、視聴者からの反響(投稿)もある」ととらえることですね。
これが分かれば、「多くの人と付き合う」という発想から脱出して、「(番組を通して)多くの人に分かち合う」という発想にできるんじゃないかな、とも思います。
SNSは「番組」です。
極論を言うと、SNSでのメッセージは、見たくなければ見なくてもいいんですよ(笑
返信する必要もありません。
それは、テレビ番組が全ての質問はがきに答えないのと同じですし、作家が全てのファンレターに答えないのと同じです。
そういう「番組」だと思えば、それは「視聴者からの一意見」になるので、放置しやすくなりますよね。
一方で、もしSNSを「手紙の集合体」だととらえてしまうと、「やりとりしなきゃ」と感じるようになってしまいます。
また、「内輪社会」と「社会全体」がごっちゃになってしまい、後々問題を起こしやすくなるので注意しましょう。
何の目的でその媒体を使うのか
そのために、「その媒体は何を目的とするか」、「誰にメッセージを届けるか」の二つを明快にするといいでしょう。
すなわち、「この番組は、何の目的で放送するのか」を考える、ということですね。
すると、自然と「切り捨てるもの」が見えてきます。
例えば私の場合、Twitterは「ファンとのつながりを確保する」ために使っています。
なら、新作を出したときに、そこで告知すれば買ってもらえると。
で、ついでに1日1回ぐらいの頻度で何か気づけるようなメッセージを発していれば、覚えておいてもらえるかなと。
だから私は、Twitterでメッセージを発信する際には、「私のファンが欲しいメッセージかどうか」でフィルタリングしています。
私が知っているとある絵描きさんの場合、Twitterを「作品の告知と展示、自分の日常をファンに見せる」という目的で使っています。
作品告知とか、落書きを掲載するだけでなく、ファンに自分の日常も見せて喜んでもらうわけです。
その日常も、やっぱりその人らしさが感じられるような、絵描きなりの観点だったり、ライフスタイルだったりして。
ファンの人って、やっぱりあこがれている絵描きさんの日常とか知りたいですからね。
だから、その人は「ファンの人に向けたメッセージかどうか」でフィルタリングして、ツイートやリツイートをしているわけです。
もちろん、「ファンだけでなく、仲間とも一緒に楽しむための手段」という目的もアリでしょう。
なら、仲間向けのメッセージも発しつつ、ファンもその「絵描き仲間同士のやりとり」を見て、楽しめると。
他にも、ある人は「日々の愚痴を語る手段」として使っていることもあるでしょう。
これは、ファンのためというよりも、自分のためですよね。
愚痴を聞いてくれる人がいないから、全世界に向けて愚痴を発信する、みたいな(笑
自分の気分が晴れるし、愚痴を聞いてくれる人が現れることもあるので、そういう使い方もアリでしょう。
目的がぶれると、何をやっているのか分からなくなる
こういう目的を、早い段階で決めておくことかと思います。
この目的がぶれると、何をやっているのか分からなくなるんですよね。
例えばたまにあるのが、「うちの飼い猫が逃げました。見かけたらご連絡ください」系のメッセージを見て、「ああ、かわいそう。助けてあげたい」とか思ってしまい、リツイートしてしまうと。
でも、その人のTwitterは、イラストを見せるためのアカウントだったりするんですよね。
いきなりぶれているわけです。
で、さらに見ると、その迷い猫の場所が「鳥取県○○市」とか、超マイナーな場所だったりするんですよ。
「あんたのフォロワーに鳥取県民がどれだけおんねん!」ってツッコミ入れたくなりますよね(笑
いや、その人が鳥取県在住で、フォロワーの多くが近隣住民なら分かるんですよ。
でも、東京とか北海道に住んでいて「鳥取県の迷い猫」レベルの小さな情報を出すと、とんでもないことになりそうですよね。
実際、次は「猫の里親募集」、「犬の里親募集」、「政治問題がうんぬん」、「これがけしからん」とか、もう意味不明なつながりができて、どれもリツイートしてしまったり。
そして結果として、「自分は何をしたかったんだろう?」となって、やめてしまうわけです。
「多くの人とつきあえる方が、利益になる」という誤解
その根底には、「多くの人とつきあえる方が、利益になる」という思い込みがあるんじゃないかな、と思います。
「この仲間と付き合えば、仲間のファンにも自分の作品を告知できて売れるかも」、「この人に喜んでもらえれば、自分の作品を買ってもらえるし、他の人に自分の作品を紹介してくれて、宣伝してくれるかも」みたいな。
それとか、上記の迷い猫や、仲間の宣伝のように、「自分が宣伝してあげたら、喜んでくれるかも」という思いもあるでしょう。
でも、そういう打算でのつながりって、しんどいじゃないですか。
だから、「人脈ができたからには、おつきあいしなければ」という風に、嫌々「やらなきゃいけない」と感じてしまうわけです。
実は、質問者さんのように「売れ始めている」状態の場合、むしろ人づきあいを制限するぐらいの方が利益になります。
人づきあいに時間を割くよりも、作品の完成度を高めることに時間を割くわけですね。
売れ始めている状態でなかったとしても、「私は一つの番組を、フォロワーに向けて放送している」と思うといいでしょう。
すると、売るために人づきあいに時間を割く必要はなくて、「自分の放送内容」に集中すればいいと分かります。
で、「自分の放送内容」に合う内容なら堂々とリツイートすればいいし、合わないならどんなに身近な人でもリツイートしないと。
その筋をしっかりと作れば、ストレスなくできるんじゃないかな、と思います。
まとめ
そんな風に、SNSは「手紙の集合体」ではなくて、「放送番組」なんだととらえるといいでしょう。
で、「その媒体は何を目的とするか」、「誰にメッセージを届けるか」の二つを明快にすると、いろんなものが見えてくると。
すると、どこまで友達として付き合うか、どこまで細かくやりとりするか、そういう区切りが見えるようになるかと思います。
まあ、無理にやりとりする必要もないかと思います。
「自分が既に売れっ子作家だったら」と思えば、まずは原稿に力を注ぐものだと分かりますからね。
「ファンレターに返信してあげれば、喜ぶだろうな」、「仲間を応援できれば、仲間も喜ぶだろうな」と思いつつ、ファンや仲間への個別サービスは、余力があるときにやればいいわけです。
それを、売れ始めた今から始めると、ぶれずにうまく進めるんじゃないかと思います。
ということで、今日は「SNSで人づきあいに疲れない考え方」、というお話をしてみました。
今日はここまで~。