今日は精神的なお話です。

「常識を避けて、リスクを選ぶ」という発想のお話をしてみましょう。

 

「うつ気味だけど、無理やり仕事をした」の罠

とあるところで、こういうツイートがあったんですよ。

「うつ気味で、気がつくと一日中寝てしまっていた。さすがに『これじゃまずい』と思って、無理矢理にでも起きて仕事をした」……みたいな。

 

でも客観的に見ると、「だからうつになるんだよ!」とか言いたくなるでしょ(笑

それは、この「うつ」を「風邪」と置き換えると分かりやすいかと思います。

「風邪気味で、気がつくと一日中寝てしまっていた。さすがに『これじゃまずい』と思って、無理矢理でも起きて仕事をした」

これって、明らかに風邪をこじらせる原因ですよね。

 

うつになったら一日中寝ていればいい

風邪のときは一日中寝ていればいいのと同じで、うつになったら一日中寝ていればいいと。

それで体力が戻ってきたら、少しずつ「活動したい」とか「何か食べたい」みたいに、自然と気力が出てくるものです。

そんな身体の治癒メカニズムを無視して強引に活動するから、もっとひどくなるんだと。

 

こういう感覚になる人って、結構いるように感じます。

すなわち、「活動しなきゃいけない。そうしなければ、自分には価値はない」という思い込みですよね。

 

私の感覚では、その根底には強烈な「常識」があるように感じます。

「こうしなきゃいけない」という常識ですね。

それにがんじがらめにされているから、身動きが取れなくなって、息苦しくなって、生きづらくなるんだと。

 

「常識を避けて、リスクを選ぶ」という発想

そういう場合、「常識を避けて、リスクを選ぶ」という発想もいいかなと思います。

 

常識は、生きる場所によって結構変わるんですよ。

例えば「働かなきゃいけない」とかいう常識も、不労所得で生活している人にとっては、そういう感覚ではありません。

そういう世界では、「しんどいことはシステムが働いてくれるのに、なんで自分が動かなきゃいけないの?」という感覚になります。

常識が違うわけです。

 

例えば「手紙や郵便物は、日本中に自分の足で、相手の家のポストまで届けなければならない」とかいう発想は、とても原始的だと分かります。

「それなら、郵便会社を使えばええやん。それとか、今はSNSなりメールがあるんだから、文明の技術を使えばええやん」と感じるものです。

その方が合理的で、楽ですよね。

郵便会社やSNS、メールを利用できる人にとっては、「自分の足で郵便物を届けなきゃいけない」という常識は、「まぁ別にそうしてもいいけど、なんかしんどそうな生き方だな」と分かります。

 

別の例で言うと、例えば自販機を持っていて長期的に安定収益がある場合、「自販機に働いてもらえばいい」という常識があるわけです。

「自販機が十分に売ってくれるなら、自販機でもええやん。まぁ自分がその道に一日中立って手売りをしてもいいし、好きでできるならそれもいいけど、それってしんどそうだな」って感じると。

いい道具や発想があれば、それを使えばいいわけです。

 

「リスクを取るのが怖いから、常識にしがみついている」という感覚

でも、世の中では「自分の足で全国届けなければならない」とか、「自分でジュースを手売りしなきゃいけない」みたいな常識があるわけです。

よくあるでしょ、「遊んでばかりいる奴は、ろくな奴にならない」とか、「言われたこともきちんとできない奴は、ろくな奴にならない」みたいな。

 

私からすると、それは本質がずれているように感じます。

私の感覚で言うと、「リスクを取るのが怖いから、常識にしがみついている」かなと。

 

自販機を買って初期投資をして、売れなければ結構大きな損失ですからね。

それとか、自販機が壊れたり、マナーの悪い客が汚したり、不法投棄のゴミだらけになったり、近所から苦情が来たり、いろんな問題が起きうるわけです。

その損失やリスクが怖いから、常識的な道を歩いているんだと。

 

リスクを取る生き方

裏を返すと、「遊んで暮らしている人」というのは、リスクを取っているわけです。

収益なんて失いうるし、不労所得だって時代の流れで失うこともあります。

投資をしたら損失になることもあるし、初期投資額を回収しきれないことも山ほどあります。

起業すれば競合が出て劣勢になることもあるし、今回のコロナウイルスみたいに収益が激減することもあります。

長時間かけたのに、収益がマイナスになることなんていくらでもある世界です。

 

常識を選ぶ人は、そのリスクを背負えないから、常識にしがみついているんだと。

そして、リスクを経営者とか会社にゆだねて、「時給はいくらで働きます。働いた分だけ確実に払ってください」となると。

だから、「我慢せよ、常識が最高だ」となるわけです。

 

ネガティブな人ほど、リスク対策しやすい

私自身は、ある意味でネガティブな人ほど、リスクを取る方が楽になれることが多いように感じます。

それは、ネガティブなほどリスク対策ができるからですね。

決まったレールから外れる場合、目の前には何があるのか分かりません。

特に今のような激動の時代ほど、リスク対策が重要になるわけで。

 

逆に、「ポジティブで行こう、なんくるないさ」ってタイプの人ほど、リスク対策なしで動いてしまう感じがするでしょ。

それは安定した場所とか、リスクがない場所、競争のようにルールが決まっている場所ほど、うまくいきます。

ですが、見えない危険なリスクが多くある場所ほど、何かあった場合に一撃死になりやすいと。

 

リスクは能力次第でコントロールできる

そして、リスクは能力次第でコントロールできます

すなわち、「我慢する」ことに力を割くのではなくて、「リスクをうまく操れるように、能力を磨こう」とするわけです。

「自販機が壊れた場合、こう修理すればいい」とか、「時代の流れがどうなっているから、こう変化させよう」、「こういうトラブルはこういう確率で起きるから、こうしよう」と予測するとか。

だから、リスクをうまく操れるようになれると。

 

そして、リスクが高いことほど、リターンも高いですからね。

なので、「リスクがあるけど、能力でリスクを低くする。だから低リスクで高リターンを得られる」わけです。

そんな「リスクを下げた高リターン」な生き方の中に、「遊んで暮らす」とか、「好きなことを仕事にする」、「お客に喜んでもらって、なおかつそれが自分の喜びになる」みたいな独自スタイルがあると。

「我慢せよ。常識が最高だ。言われたことをきちんとしろ」という生き方とは、全く別の発想ですよね。

 

で、好きに自由にできるし、我慢するよりもはるかに楽に自分の望む未来を作れるから、モチベーションも高く学べます。

そうやって、我慢をせずに、望む生き方を実現するという発想です。

 

まとめ

なので、「活動しなきゃいけない。そうしなければ、自分には価値はない」という場合、その根底にある常識を疑ってみるのもいいかと思います。

「無理に我慢しなくても、楽しんで豊かになる道もある」という世界もあるんですよね。

そういう世界で生きている人も、山ほどいます。

 

ただ、それは常識の世界からは外れた場所にあるだけで。

そしてそこに行くには、リスクを選ぶ必要があると。

「遊んで暮らしている人は許せない」じゃなくて、「彼らはリスクを選んでいるんだ。そしてリスクコントロール能力に集中することで、願いを実現しているんだ」と分かると、そういう世界の住人への感覚が変わるかなと思います。

 

生きることがしんどい場合、我慢することがしんどい場合、そういう道も一つの選択肢かなと思います。

特にネガティブ体質な人ほど、そういう「常識を避けて、リスクを選ぶ」という道もよさそうに感じます。

すると、新たな可能性が見えるかもしれません。

 

ということで今日は、「常識を避けて、リスクを選ぶ」というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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