次回作は地道に進めてはいるんですが、当然なかなか進まない日もあって。
うーむ、まぁ焦らずに進めることにしましょうかね。
今年中にはリリースしたいところです。
で、今日は精神的なお話です。
「カモになっている場から出て、誰かを助けられる場に移ろう」というお話です。
カモにされていることに気づいていない場合
少し前に、こういう記事とかこういう記事、こういうツイートがあったんですよ。
内容はというと、「アメリカ大統領のドナルド・トランプ氏が所得税をほぼ払っていない」、「Amazonもほとんど税金を払っていない」、「一方で(サラリーマンは)年収に応じてこれだけ税金を支払わされている」みたいな内容で。
こういうのを見るたびに、「ああ、お金の仕組みを知らない人も結構多いんだな」と思ったりもします。
すなわち、「カモにされていることに気がついていない場合がある」ということです。
誰がカモか分からない場合は、自分がカモにされている
ほら、「ポーカーで20分プレイしても誰がカモか分からない場合、自分がカモだ」という言葉がありますよね、
同じように、奪い合いの世界では、「誰がカモか分からない場合は、自分がカモにされている」という法則があるように感じます。
例えば上記記事の税金にしてもそうで、一番のカモはサラリーマンなんですよね。
一方で(個人経営を含む)事業家は、税金についてだいぶ有利になります。
というのも、「事業家は経費を売上から引けますが、サラリーマンはそれができない(使う前に税金を取られる)」と。
そして、このシンプルな原理がどれだけインパクトを与えるのか、分かっていないわけです。
事業家は、売上を再投資すれば、税金を限りなくゼロに近づけられますからね。
そういう「ゲームをプレイする上でのルールやコツ」みたいなものがあるわけです。
だから奪い合いの世界では、「誰がカモか分からない場合は、自分がカモにされている」になると。
「誰がカモか」を考えてみる
その場合、苦しい場にいるなら、「誰がカモか」を考えてみるのもいいでしょう。
きっと多くの場合で、「自分がカモにされていた」と分かるんじゃないかと思います。
これは国家規模でなくとも、家族単位でも同じです。
家族の中で生きるのが苦しい(奪い合いになっている家族)の場合、親から搾取されていることが多いでしょう。
ひょっとすると、「自分は家族に迷惑をかけている。落胆させている。だから全力で尽くさなきゃいけない」と思い込んでいるかもしれません。
でもそこで「誰がカモか」を考えてみると、「あ、良心を利用されて、自分がカモにされていた」と分かったりするんですよね。
ルールを超えて尽くす必要はない
大体、自分の幸せは自分で作ればいいんですから、決められたルールを超えて尽くす必要などありません。
そしてその「決められたルール」というのは、実は私達が思っている以上に自由です。
でも、奪い合いの場では、巧妙に「お前が悪い」とルールをねじ曲げて見せかけて、搾取されるものです。
その場合、その社会全体のルールを冷静に把握できれば、そういう搾取から逃れられます。
それはただ、「ゲームのルールやコツ」が見えるようになればいいだけです。
誰かを助けられる場に向かうのもいい
で、そういう奪い合いの場から出ることですね。
そして、誰かを助けられる場に向かうのもいいでしょう。
見せかけだけではない、搾取されることもない、本当に分かち合える場ですね。
搾取状態から解放されると、成果を着実に育てることができるようになります。
畑作りと一緒で、作物に愛情を注いで育てただけ、作物はうまく実ります。
いやまぁ、それなりにうまくいかないこととか失敗もありますが、それは搾取とは違って、学んで向上してゆけるものです。
だから、失敗も苦しくなく、学びにしてゆけると。
まとめ
なので苦しい場合は、「誰がカモか」を考えてみるのもいいでしょう。
苦しい環境にいるほど、「実は自分がカモにされていた」と分かるかもしれません。
それで、ルールやコツに目を向けるわけです。
すると、「こうしなきゃいけない」という目先の思い込みから逃れられます。
それは、本当のルールはもっと自由にできるし、いろんな手段があるからですね。
私達は、そういう「こうしなきゃいけないと思い込まされている小さな錯覚ルール」に、多く縛られているんだと。
これが分かると、搾取されているような場や環境、家族からは逃れることができるかもしれません。
そして「分かち合える場で、分かち合えばいい」と分かって、余裕を作りやすくなるかな、と思ったりもします。
ということで今日は、「カモになっている場から出て、誰かを助けられる場に移ろう」というお話をしてみました。
今日はここまで~。