今日は精神的なお話です。

「迫害されて、逃げた先で自分なりの幸せを見つける話」って、なんかいいですよね、というお話です。

 

「追放もの」のパターン

異世界ものなり、ファンタジー漫画でも見ていると、こういう「追放もの」のパターンがよくあると思うんですよ。

それが、「『みんなが評価する場』から迫害されて、逃げた先で、自分なりの幸せを見つける」みたいなパターンで。

 

例えば主人公が、勇者パーティーに属していたとしましょうか。

勇者パーティーだけでなく、主人公が元々属する場所は、会社とか、学校の生徒会、スポーツや習い事みたいな、何らかの「競争と勝利を重視する社会」になるかもしれません。

そういう場所って、「頑張りを強いられる環境」とか、「自分を殺さなければいけない社会」、「競争社会」、「弱者に厳しい世界」になるものです。

 

そんな競争社会にいる主人公が、「落ちこぼれ」とか「役立たず」として扱われます。

というのも、主人公は周囲とは違う、独自の価値観や個性を持つからですね。

そういう独自の価値観や個性があることで、周囲と同じように振る舞えないわけです。

周囲のように非情になれなかったり、つい弱者に対して優しくしてしまったり、頑張っているのに認められなかったり。

 

「逃げ込んだ先が、自分が輝ける場所」という形

で、周囲の不満を募(つの)らせてしまって、最後には関係が破綻してしまうと。

そして仲間たちから、「お前は役立たずだ!」と追放されてしまうことになります。

追放に限らず、罠にはめられて殺されそうになったり、処刑されそうになったり、売り飛ばされたりすることもあるでしょう。

 

主人公はそんな裏切りを経ることで、落ち込んで、今まで作った地位も名誉もお金もすべてを失います。

で、今までの世界から逃げて、とある田舎に入るわけです。

すると、そこで優しい人たちに出会って、今まで認められなかった自分独自の感性や力を発揮して喜んでもらえます。

で、多くの人から喜んでもらうことで、「ここで生きていきたい」と思うようになる……みたいな流れです。

 

ある意味、迫害されて逃げ込んだ場所から、「本当の自分の物語がスタートする」という流れになると。

こういうのって、ひとつのパターンでしょ。

 

こういうパターン、大好き!

私はこういうパターンが大好きなんですよ。

まぁ私は、そういう「競争社会から出ること」とか、「自分の個性を生かすこと」が好きな人なので、やっぱりそういう流れはひとつの共感を覚えるわけです。

それに、導入部分だけでも、ひとつの短編物語になってますからね。

導入部分だけでも普通に面白いし、パターンとしても作りやすいので、冒頭の展開が分かっていても、やっぱりついはまってしまうと。

 

で、こういうのを見ていると、「今の競争社会から出た先にも、別の生き方があるよ」と教えてくれるように感じます。

私たちは「逃げちゃダメだ、勝たなきゃダメだ、振り落とされちゃダメだ、ダメ人間になってはダメだ」とか思いがちです。

「みんなそうして生き延びているんだ。それができなければ、生きられなくなる。生きている資格はない」とか思い込んでいて。

 

今の自分の常識は、「ごく一部の社会」での常識でしかない

でも、そういう「今の自分の常識」って、「ごく一部の社会」での常識でしかないんですよね。

世の中は広くて、ゆったりまったり生きている人だったり、1日3~4時間程度だけ働いて、後は好きなことをして生きている人だっているわけです。

 

確かに、そういうまったりした場では、「大勢から認められる見栄や栄誉」もないし、贅沢もできないでしょう。

不便な田舎にあるし、いろいろ自分でやらなきゃいけないし、お金だって少ないので、家にも便利な機能がないわけです。

だけど、そういう場所には、ゆったりした空気があって、それぞれが「自分なりに生きればいい」としていると。

 

だから、「今の競争社会から出た先にも、別の生き方がある」ということですね。

「今の場で、矛盾を抱えて、苦しみながら戦って成功する」のは、物語の導入部分でしかないと。

むしろ、今の場から迫害されて出た後で、本当の「自分の物語」が始まる、ということです。

 

どのみち、すべてを失って出ることになる

で、だいたいどんなパターンでも、「合わない場所からは、すべてを失って出る」ことになるんですよ(笑

たとえ成功していたとしても、すべてを奪われるだけでなく、自分からすべてを手放すこともあります。

だって、競争社会にこれ以上巻き込まれたくないほどうんざりしているので、元々その場にいた人たちに認識されたくないんですから。

だから、名前を変えたり、時には姿や顔を変えたりして、新しい自分になることが多いわけです。

 

なら、「どのみちすべてを失う」と分かっているのなら、さっさと出ていればいいですよね(笑

「今の環境で重要な力」なんて、「新たな場所」ではまず役に立ちません。

いやまぁ、物語では「魔物退治をしていた勇者が、田舎でも魔物退治をする」とかありますが、多くの場合でそれは「過剰な力」になります。

一言で言うと、「外の世界では、そんなに頑張らなくてもいい」なんだと。

 

うんざりするほど、自分に合う環境に入りやすい

私の中では、「競争社会にうんざりするほど、自分に合う環境に入りやすい」ように思います。

だって、競争社会に心底うんざりするほど、正反対の環境に入れるんですから。

 

だけど、多くの人がうんざりせずに、「やっぱり成功したい」とか「認められたい」みたいに、未練たらたらなんですよ。

すると、「自分に合わないから」と見栄や栄誉を目指す会社をやめても、また同じような会社に入ってしまうわけです。

で、「やっぱり合わない。でも認められたい」の狭間で揺れ動き続けて、消耗し続けると。

ある意味、これが「破綻するまで変えられない」という人のパターンのようにも思います。

 

「我慢できない性質」は強みになる

言うなれば、「我慢できない性質」は強みになる、と言えます。

「みんな、頑張ってるな。だけど俺は、みんなのようにはなれないよ。だからみんな、期待に添えなくてごめんね」と苦笑いをして、荷造りをして、ひっそりと旅立つと。

これが楽にできる人は、強いでしょ。

 

そして、都会で競争に明け暮れて豪華さを競っているいる場合、それにうんざりするから、「競争や豪華さが一切ない田舎や辺境の地」に入れるわけで。

我慢できないから正反対をいろいろ試せて、自分に合う度合いを見つけてゆけます。

 

それだけなく、そういう「旅慣れている人」は、生きる力が強いものです。

豪華なものも必要ないし、見栄も求めないし、質素で最低限の道具と食料だけで、生きていけるんですから。

確かに「都会で競争に勝って、自分が何もしなくても、お金で何でも周囲の人を使ったり、商品やサービスを得て生きられること」も、ひとつの生きる力でしょう。

でも、「競争から離れて、自分で自分の世話をいろいろできるようにして、自分で自分を満たして生きること」も、ひとつの生き方です。

 

人生の楽しみ方も変わる

他にも、「競争の場」と「新たな環境」では、楽しみ方が変わります。

競争の場では、「競争に勝つこと、自分より弱い人を見下すこと、強さを誇示すること、自分だけが高笑いをすること」が楽しみかもしれません。

でも、主人公が新たに向かう場では、「弱い人や貧しい人を助けたり、相手の力を認めてあげたり、みんなと笑い合うこと」が楽しみになるものです。

で、前者が合う人もいれば、後者が合う人もいる、ということですね。

 

そして私は、後者が好きなタイプです。

だから、そういう方向を楽しみつつ、動いていると。

 

まとめ

そんな風に考えると、「我慢できないこと」とか「ダメなこと」も、意外と可能性があると分かるかなと思います。

世の中は広いですからね。

その競争社会に居続ける必要はないし、別の価値観で生きている社会もあるものです。

 

その場合、早めにうんざりして、すっきりと縁を切れる人ほど、自分に合う環境を見つけやすいように思います。

どのみち出る時にはすべてを失うんですから、そう考えると気楽になれるでしょ(笑

 

人生でも同じで、私たちは寿命を持っているものです。

すなわち、「どのみち80年後か100年後かには、命も失う」わけです。

なら、嫌ならさっさとうんざりして、正反対の環境を見てみるのもいいかなと思います。

すると、「こういう生き方もあったんだ」と目からウロコで、新たな可能性が見えるかもしれません。

 

ということで今日は、「迫害されて、逃げた先で自分なりの幸せを見つける話」って、なんかいいですよね、というお話でした。

今日はここまで~。

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