今日も精神的なお話です。

「誰も傷つけたくない」が一番人を傷つけやすい、というお話です。

 

「誰も傷つけない漫画」に起きた矛盾

以前どこかで、こういうツイートを見かけたんですよ。

それが、「誰も傷つけない漫画」と題された漫画でした。

そしてそれは、コマ割りだけして、中身がすべて空っぽの漫画でした。

 

すると、そのコメントに、「目的と手段が逆転してる」とか「揚げ足取りでしかない」、「思考放棄だ」、「漫画である意味がない」みたいに、攻撃的な反論ばかりが来ていたと。

すなわち、「誰も傷つけない漫画」というタイトルの漫画が、結果として「普通の漫画よりも、はるかに多くの言い争いを生んで、人を傷つけた」という、矛盾する結果が生まれたわけです。

 

これ、考えてみると、面白い現象ですよね。

世の中には、これと同じように「誰も傷つけたくない」という態度で生きることで、逆に多くの苦しみを得ている人もいるように思います。

すなわち、「誰も傷つけたくない」が一番人を傷つけやすい、という現象です。

 

「絶対善」を追い求めると、盲目になる

じゃあなぜこういう現象が起きるのかというと、「絶対善」を追い求めるからだろうと思います。

以前に絶対悪のお話と、絶対善のお話をしましたが、それと同じです。

 

そういう人は、「私は誰も、何も傷つけたくないんです」と言いながら、平気でお米を食べていたり、野菜を食べていたり、牛や豚を食べていたりするんですよ。

「いや、食べられる側の植物や動物の気持ちはどうやねん」とか、ツッコミを入れたくなりますよね。

 

すなわち、「善悪の判断が、自分の中だけで閉じてしまっている」ということです。

言い換えると、誰かの「幸せの形」とか、「正義の形」を勝手に自分が決めつけて、それが誰にでも通じる真実だと思い込んでいる、ということです。

本来なら世の中にはいろんな価値観があるのに、「すべての人間や生命は、こういう状態になることで苦しみ、こういう状態になることで幸せになる」と、自分の価値観の中でしか生きていないわけですね。

だから、そういう「周囲が適切に見えていない人」は、周囲から反発されやすいし、攻撃されて当然かな、と思います。

 

世の中には、いろんな価値観がある

世の中には、いろんな価値観があるものです。

例えば、人によっては「人間は誰でも、他人から相談されると、迷惑に感じる」と思い込んでいるかもしれません。

でも、世の中には「相談されると嬉しくなって、ついいろいろ答えてしまう人」みたいな性格の人だっていますよね。

 

他にも、例えば「都会から追い出されて、田舎で暮らさざるを得なくなった人は、苦しむ」と思い込んでいるかもしれません。

でも、世の中には、田舎の方が大好きで、生き生きできる人もいるわけです。

 

別の例では、「人間は誰でも、争いは好きではない」と思い込んでいるかもしれません。

でも、バトル漫画とかスポーツ漫画、アクションゲームが好きな人なんて、山ほどいるわけです。

すなわち、「競争したりバトルをすることが好き」という人も、多くいると。

 

「傷つけたくない」と同じ数ほど、「許せない」が出てくる

そういうのが見えずにいると、周囲から反発を受けそうなのは分かりますよね。

だって、「人は皆、誰にも相談してはならない。人は皆、都会で生きなければならない。バトル漫画やゲームはすべてダメだ! 全員がそういう感覚で当たり前だ!」という態度で生きているんですから。

 

そして、その価値観に反している人を見たら「許せない!」になります。

というのも、「傷つけたくない」と「許せない」は表裏一体のものだからですね。

 

人に相談する人を見たら「許せない! 相手に迷惑をかけて!」と思います。

田舎に移住した人を知ると、「許せない! 国家がそんな人を作るなんて!」と攻撃します。

バトル漫画を楽しんでいる子を見ると、「それが争いを生むのに、なぜそんなことをするんだ!」と否定します。

「傷つけたくない」と同じ数ほど、「許せない」が出てきます。

 

いやまぁ、だいぶ極端な例ではありますが、「絶対善」を目指す人というのは、そういう状態になります。

 

だから、周囲から反発を受ける

だから、周囲からの反発が出てきます。

それは当然で、周囲からすると、「お前が勝手に俺の幸せを決めるなや」って言いたくなりますからね(笑

それが分からずに、「すべての人は、こういう状態になるべきだ」と、あたかも自分が世の中の神になったように、自分の価値観を信じてしまっているわけです。

 

「誰も傷つけたくない」って、なんだか一見すると、「みんなを思いやっている」とか「自信がない状態だ」とか思いがちじゃないですか。

でも実際は正反対で、誰も思いやってなんかいないし、自分が神だと思い込んでいるわけです。

「自分の中にある価値観」が世界のすべてで、それを自分に、世界に当てはめようとしているんですから。

 

現実は、そうではないですよね。

相談されることが喜びになる人もいるし、田舎が好きだったり、バトル漫画が大好きで、生きる糧になる人もいるわけです。

 

「最低最悪な私」なんてものはない

なら、「こんな最低最悪な私を好きになってくれる人はいない」という、「最低最悪な私」なんてものはないと分かります。

だって、世の中にはいろんな価値観があるんですから。

 

例えば、私たちや、すぐ周囲にいる少数の人たちが「こういう性格の人間は、最悪だ」と思っているかもしれません。

でも、他の特定の状況にいる人にとっては、「それが最高なんだよ! そういう人を待ってたんだ!」ということも、普通にあると。

ある意味、「価値観の相性」の問題でしかない、ということです。

 

すると、「この個性で喜んでくれて、好きになってくれる人がいる」と分かります。

砂漠のように暑い場所が好きな生命もいれば、南極のように冷たい状態が好きな生命もいると。

 

これが分かれば、「そういう価値観の場所に行けば、私は受け入れられそう」と分かります。

すなわち、「絶対善にならなくてもいい」ということですね。

価値観なんて、世の中にはいくらでもあるんですから。

 

まとめ

そういう風に、「世の中にはいろんな価値観がある。私が『こういうのが最低だ』というのを、『それが最高だ!』と喜ぶ人もいる」と知ることですね。

それを知った瞬間に、「ああ、絶対善にならなくていいんだ。場所を移動すればいいんだ」と分かります。

すると、「誰も傷つけたくない」というのが盲目で「単一の価値観」でしかないと分かり、そんな盲目な状態から抜け出せるかと思います。

 

ただ単純に、「今までの周囲が、私が提供する個性と合わなかった」というだけです。

世の中の広さ、価値観の多様さを知ると、「この個性で喜んでくれる人が、この世界のどこかにいる」と分かって、発想を変えて生きられるかもしれません。

 

ということで今日は、「誰も傷つけたくない」が一番人を傷つけやすい、というお話でした。

今日はここまで~。

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