今日は、精神的なお話です。

「彼らの狙いは、いったいどこにあるんだろう?」と考えると、自由に動きやすくなる、というお話です。

 

他者に対する「理解できない」「意味不明」という感覚

SNSでも見ていると、たまに「彼らの行動は、理解できない」とか、「彼らは意味不明だ。どうしてそんなことができるんだ」とか、ありますよね。

最近では、特に政治家に対して、「彼らの意図を理解できない」とか「彼らが何を考えているのか、意味不明」とか、多いように感じるんですが。

コロナウイルスの対応とか、オリンピックの開催とか、まぁいろいろあるかと思います。

 

こういうメッセージを見ると、「あ、私の感覚とは違うな」と感じたりもします。

私の場合、あまり「理解できない」とか「意味不明」みたいな感覚は持たないんですよ。

そして私の場合は、「彼らの狙いは、いったいどこにあるんだろう?」とよく考えるように感じます。

すると、「世の中にはいろんな思惑がある」、「ちゃんと行動原理がある」と分かって、執着を手放せて、自分なりに動きやすくなるように思います。

 

脅威ほど、「意味不明」では終わらせられない

これはレールから外れて生きる人なら分かると思うんですが、自分に脅威を与えるものに対して、「意味不明」で終わらせたくはないですよね(笑

例えば、人間を食べる肉食獣がいたり、殺人鬼がいたとしましょうか。

すると、脅威が間近にあるほど、「なんであんな行動をするのか、意味不明」とか言ってられないでしょ(笑

どういう法則性で動いているのか、何を求めているのか、そういう風に「相手の行動原理」を知ることで、こちらも対応できるんですから。

 

この「相手の行動要因」が分かれば、対応ができます

「腹が減っているなら、相手が満腹の時に動く方が安全」とか、「相手がこういう安全を確保しつつ、こういう相手を狙っているなら、こう対応できる」みたいな。

すると、そこから「もし相手の腹が減っているなら、こうしてみるとどうだろう」と仮説を立てられて、対策をしてゆけるわけです。

 

仮説があると、安心できる

少なくとも、ある程度の仮説を立てられると、安心はできますよね。

「彼らは完全に気が狂って動いているのではなく、こういう自分なりの利益への思惑で動いている」と分かれば、少なくとも「彼らは理性で判断して動いている」と分かります。

だから、「不可解な恐怖」みたいなものはなくなるし、たとえそれが欲深い行動でも、「まぁ相手も人間だから、欲に突き動かされることもあるよ」と、相手の価値観や自主性を認められます。

 

だいたい、自分を振り返ってみても、「私だって『自分さえよければいい』と思う部分もそれなりにあるしな」と分かりますからね。

すると、相手に対する怒りも手放せて。

そうやって、自分なりに周囲の環境と折り合いをつけて、生き抜いていくわけです。

 

裏を返すと、安全な場所にいるから、「理解できない」、「意味不明」で終わらせられるような気もします。

だって、相手の動きを予想して、初めて自分の行動を決められるんですから。

だから、「理解できない」、「意味不明」で終わらせるのは、「私は何も対策をしません」と同義のように感じます。

そう考えると、「理解できない」と言っている人は、「対策をしたり、何かを変えること」よりも、「嘆くことで憂さ晴らしをすること」を目的としているように思います。

 

要所を推測する習慣があるか

見方を変えると、こういう思考の習慣は、「要所を推測する習慣があるか」ということも意味するように感じます。

物事を成し遂げたい場合、どんなものにも「この部分を攻めると、うまくいきやすい」という「要所」があります。

その部分を見抜いて攻略すると、最小限の資源で、最大限の効果を上げやすくなるわけです。

そういう「ここがポイントだ」という要所から攻める、という発想ですね。

 

で、要領よく願いを実現できたり、豊かさを得られる人ほど、そういう要所を見抜く習慣があるように感じます。

まぁそれは当然で、要所を見極めることで、欲しいものとか、足りないものをどんどん得てゆけるからですね。

 

逆に、レールの上を進んでいたり、人から指示されて動くばかりの人は、そういう「要所を攻める発想」、「自分が未来を作る発想」が少ないように感じます。

だから、「理解できない」、「意味不明」で終わらせちゃうのかな、と思ったりもします。

 

まとめ

そういう意味でも、「彼らの狙いは、いったいどこにあるんだろう?」と考えると、要所を狙いやすくなるように思います。

それは、相手が政治家であれ、親や上司、お客であれ、同じです。

で、対応できるならして、対応しきれないなら撤退すると。

 

で、仮説は少々間違っていてもいいと思うんですよ。

だいたい、世の中すべての思惑や行動要因を、理解できるわけもありませんからね。

でも、「それぞれの人が、狂って動いているわけではなく、自分なりの理性的判断で動いている」と分かると、相手を許せるようになるかと思います。

 

もちろん「どうして、そういうこじれた思考をするんだ」、「なぜそんなに安易に済ませるんだ」とか、言いたくなることはありますが(笑

それとか、私の場合は「みんな短期ばかりで、長期で考えないな」とか、よく感じたりもするんですが。

それでも、「まぁそれもその人の判断だ。その判断責任は、これから背負うことになるだろう」と、責任を相手にゆだねられます。

 

同じように、「私は私の判断で、短期は犠牲にしても、長期的な自分の豊かさと幸せを作ろう。なら、この豊かさは私のものだ」と、自分の責任にできると。

私はそういう「自分の責任を持つ」ことが好きだ、ということですね。

 

すると、要所も見極めやすくなるし、対策ができるようになります。

そして「相手への理解」もしやすくなって、安心しやすくなるかなと思ったりもします。

 

ということで今日は、「彼らの狙いは、いったいどこにあるんだろう?」と考えると、自由に動きやすくなる、というお話でした。

今日はここまで~。

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