今日は心理学的な日記です。

「これが愛されて育った人の感覚なのか!」と、初めて実感できたので、それについてお話ししてみましょう。

 

「誰か、私を理解して」という欲求

「誰か、私を理解して」とか、「理解してくれる人が欲しい」と感じることって、人によってあるかと思います。

自分を理解してくれる人がいると安心するし、心の支えが得られるようなイメージがありますよね。

そしてそういう精神的な支えがあることで、精神的に安定するし、安らげて、強くなれそうに感じるものです。

 

私自身、そう感じることは結構あったんですよ。

特に学生時代や独立後は強烈に感じていたし、だけど満たされないので、「成功すれば、きっとなんとかなる」と自分に言い聞かせたりして。

 

ですが最近、というか昨日なんですが、私自身の中からそういう「理解して欲しい」という欲求がいつの間にか消えていたことに気づいたと。

それで、「これが愛されて育った人の感覚なのか!」と少し感動したわけです。

 

なので今日は、その出来事と、「愛されて育った人の感覚と、その原理」についてお話してみましょう。

 

なぜ「理解して」という欲求が消えたのか

とりあえず結論を先に言っておくと、「自分の感情に着目して、自分の感情を理解して受け入れられると、『誰か、私を理解して』という欲求が消える」ということです。

よくよく考えると当たり前のことなんですが、改めてこのメカニズムを見ると、なぜ「感情を受け入れられると、安心が得られるのか」が分かるかと思います。

 

で、ここからが、私に起こった出来事のお話です。

おとといの記事で、新たな精神療法「性質別コミュニケーション療法」を提案したじゃないですか。

で、昨日の記事では、もうこのブログ日本語版最終回のノリで書いて、私の中にある思いをすべて出し切ったわけです。

 

すると昨日の朝に記事を書き終えた後、午後から急に、なんだか変な感覚を持つようになったわけです。

それは一種のさみしさのような感覚で、ここ最近は猛烈にエネルギーが出ていたのに、急に生命力が消えてしまったかのような実感でした。

 

で、最近の私は、何か考え事をする時は海に向かうんですよ。

なので、昨日もなんだかよく分からない感覚を抱えたまま、「こういう時は、海だな」と海に向かったと(笑

 

自分の感情を表現する、という初めての試み

それで海を眺めていると、ふいに「どうせなら、自分の感情を言葉で表現してみよう」と、私の深層意識が私に語ったわけです。

おとといの記事でも触れましたが、私は「感情表現」と「論理」を主に使えるタイプ(4つの性質分類でのHSPタイプ)だと言えます。

 

ですが、私は感情表現が強烈に苦手なんですよ。

まぁその辺は、このブログを見ていても、分かるでしょ(笑

記事の内容でも、私自身の「こういうことを感じた」という感情表現はとても少なくて、論理偏重で。

ある意味、私は今まで自分の感情と対話するのが苦手で、だから論理ばかりに頼って生きてきた、と言えるでしょう。

 

なので私は、「それなら今回は、意識的に今の自分の感情を見つめてみよう。どういう感情なんだろう?」と、生まれて初めて自分の感情表現に向き合ったわけです。

感情表現が下手だけど、おとといの記事で「錯覚していただけだ」と分かったし、自分の感情に向き合いたくなったと。

正直なところ、「自分であの記事を書いたんだから、自分で試してみなきゃね」という思いもありました(笑

 

感情を理解するまで

で、いろいろ「これはどういう感情なんだ?」と考えていくと、「あぁ、これは製作後の虚無感と一緒だ。それを強化したバージョンだ」と気づけたわけです。

ほら、製作が完成した後って、ふいに空虚な感覚になることが多いじゃないですか。

特に制作で熱中できていたり、高エネルギーでできているほど、完成した後の反動は大きくなるもので。

 

なので「今回の感覚は、その虚無感を強化したものだ。今までの人生でも、1、2を争う落差だったから、分かりにくくて戸惑っていたんだ」と理解できたと。

それでその時は、「そうか、そういうことか」と納得して、そのまま終わりました。

 

「私を理解して」という欲求が消えている

でも、その1時間後ぐらいに、ふいに気づくわけです。

「あれ? 以前まで感じていたような、『誰か、私を理解して』って欲求が消えているぞ?」みたいに。

 

気づいてみると、自分でも驚くような、心の安定感なんですよ。

以前は、特に学生時代や独立後は、こういう時は「気分転換をしよう」とか、「何か他のことをして、気晴らしをしなきゃ」と感じてました。

そうでなければ、「その感覚」に耐えられなかったわけですね。

 

ですが昨日の場合、「私はエネルギーを失った状態だな。まぁ、もう少しすれば戻るだろう」と、その「エネルギー枯渇状態でいること」のままでいられたと。

すると、もちろんエネルギー枯渇で力は出ないんですが、不安がなく、深い安心でいられたことになります。

 

これが、愛されて育った人の感覚

これに気づいて、「ああ、これが愛されて育った人の感覚なのか!」と、ようやく理解できたように思います。

 

つまりは、こういうことです。

私は幼い頃からの環境で、「感情表現(共感言語)」にこじれと錯覚を持っていて、きわめて感情表現が苦手でした。

それは、私自身の「内面との対話」でも同じで、そういう「自分の感情に向き合うこと」が下手だったわけです。

 

だけど今回は、感情に向き合い、自分の感情がどういう内容なのか、理解できました。

すると、次のような現象が起きます。

  • 自分の内面で、自分との感情的対話ができる → 自分の状態を理解できる → 安心する → 必要に応じて対策する

 

一方で、自分の感情に向き合えないと、次のような現象を持ちます。

  • 自分と感情的対話ができない → 自分の状態を理解できない → 自分の状態に不安になる → 「誰か、私を理解して」「気晴らしをしてごまかそう」という反応を起こす

 

「自分を理解できない」という不安

「自分の感情に向き合えない」というのは、自分の状態を正確に理解できないことになります。

すると私たちは、「自分の中で、自分には理解できない、何か奇妙に動くものがある」と感じます。

これって、すっごい不安でしょ。

 

つまり私たちは、「自分を理解できない不安」を抱えるわけです。

だから「誰か、私のこの不安を理解して」と、他者にその理解を求めると。

そしてそういう理解してくれる人がいない場合、「気晴らしをしたい。別のことを考えたい」と、その不安から目をそらせて、ごまかすようになります。

 

また、そういう「胸の中にある、自分には理解できない何か」があることで、「自分の感情が、誰か他の人や価値観にコントロールされている」と感じます。

だってそういう「奇妙な何か」があることで、私たちは実際に不安を抱えているんですから。

それが、「自分は自分をコントロールできていない」というおびえや不信感につながると。

 

なぜ突発的な感情に、意識が持って行かれるのか

そしてそれが、「突発的な感情的衝動に、意識が勝手に持って行かれる」という現象を引き起こします。

まぁそれは当然で、自分の感情を理解できていなければ、見当違いなことをしてしまいますからね。

 

例えば本当は「エネルギー枯渇で、休みたい」という時に、気晴らしでバッティングセンターにでも行って、さらにエネルギー発散をするとどうでしょう。

本当は神経がすり減って疲れているのに、もっと神経をとがらせて、別のことに集中してしまうわけです。

 

すると、その後に「もっと疲れた」と急激な下落が来そうなのは、すぐに分かるかと思います。

躁鬱(そううつ)というのは、おそらくそういう「自分の感情を無視することで、必要な対処ができずに、逆効果な行動の反動に苦しんでしまう」というメカニズムだと言えるように思います。

 

また、場合によっては、「成功すれば、きっとこの感覚も解決する」とか「お金さえあれば、もっと憂さ晴らしをできる」と、別の欲求に置き換えてごまかすこともあるでしょう。

そうすることで、「自分の中にある、不可解な感情」をごまかして、意識しないようにしているわけです。

そしてこれが、「感情に向き合えないと、社会的成功や、憂さ晴らしを求め続ける」という根源になっているように思います。

 

感情に向き合えて受け入れられると、不安が消える

逆に、もしそこで自分の感情に向き合えるとどうでしょう。

すると、そういう「理解して」とか「気晴らしをしたい」という欲求がすべて消えて、自分に合う行動を取れます

 

例えば「エネルギー枯渇で、休みたい」という時には、「少し休めばいいか」と必要な対策ができて、受け入れられます。

だから例えば私の場合、「エネルギー枯渇をした自分」を受け入れて、そのまま海から離れて、休むことにしました。

なので変に違う活動をして疲れることもなく、逆効果になるような行動もせず、素直に休めます。

 

感情に名前をつけると、不安が消える

そして自分の感情を理解できているから、不安はありません。

ある意味、その感情に名前をつけるから、その名前を理解することで、不安が消えるわけですね。

 

ほら、例えばストーリーでも、「自分にしか見えない奇妙な妖怪がいて、何か悪さをする。だけどその妖怪の名を知ると、その妖怪を使役できる」みたいな法則があるじゃないですか。

まさにそれがこの現象の象徴で、「自分の中にある不可解な感情に名前をつけて理解すると、その感情を自分の支配下に置ける」と言えます。

 

感情から逃げると、その妖怪から苦しめられるばかりです。

なので逃げるのではなく、正面から向き合って、その哀しさや苦しさを知ると、感情の名前を理解できます。

もし名前がない場合、適切な名前をつけることで、自分の支配下に置けると。

 

感情を使役できると、精神攻撃を無効化できる

また、そういう風に感情を使役できると、その感情という名の妖怪は、味方になります。

そしてそれによって、相手からの精神攻撃を無効化できます

 

というのも、「精神攻撃」とは、「相手の中に特定の感情を引き起こすことで、ストレスを与えて疲弊させること」ですからね。

ですが、その感情を使役できていると、ストレスを得ることはなくなります。

むしろ、「相手は私に、この感情を引き起こそうとしている」、「相手は、その感情にとらわれている」と理解できる余裕ができて、相手の立場や事情を考慮できるほどです。

 

なので感情を使役できると、他者からの精神攻撃が効かなくなると。

 

そして様々な感情の名を知れば知るほど、感情が味方になり、精神的に安定します。

そういう意味でも、感情に向き合い、「感情の名」を知ることが大切だと言えます。

 

だから「理解して」という欲求が消える

すると、「自分の中にある、奇妙な何か」におびえることもなくなるし、「自分をコントロールできない」と感じることもなくなります。

「誰か、私を理解して」とか、「気分転換したい。この気持ちを塗り替えたい」とする必要も感じません。

突発的な衝動が生まれることもありません。

 

また、私の場合は抑圧を解放しているので、「こんな状態じゃダメだ。ポジティブにならなきゃ」と感じることもありません。

そこに拒絶もないし、恐怖もないと。

 

「感情」と「安心」は別物

つまり、「感情」と「安心」は別物だ、ということです。

多くの「感情表現が苦手になった人」は、例えば「落ち込むと、不安になる」という風に、感情と安心を連鎖してとらえてしまいます。

 

ですが実際は、「落ち込む」というマイナスの感情を得ても、安心し続けることができます。

それは、自分の感情を正確に理解できて、受け入れられれば、「落ち込んでいるけど、安心できている」からですね。

 

感情を受け入れられた人の安心感

そしてこれが、感情を受け入れられた人の安定感だと言えます。

つまり、愛されて育った人は、自分の感情と素直に向き合えるし、それを受け入れられるわけです。

だから安心できて、その感情の時に必要なことができると。

 

わざわざ他の人に、自分の気持ちを理解してもらう必要はありません。

無理に憂さ晴らしをして、気分を塗り替える必要もありません。

そもそも、そういう欲求すら出てこなくなります。

 

一方で感情に向き合えないと、不安ばかりになります。

それが「誰か、私を理解して」とか、「理解してくれる人が欲しい」という欲求につながることになります。

 

だから「自分の感情と対話できない人」は、自分の人生のコントロール感を失いやすいし、不安も持ちやすい、ということです。

「名前を知らない、自分にしか見えない、そんな悪さばかりをする妖怪」に翻弄(ほんろう)され続けてしまうわけですね。

 

まとめ

これが、感情表現(共感言語)が苦手な人が陥る、不安感のメカニズムのように思います。

 

自分の感情に向き合えると、自分の状態を理解できます。

それが不安を消して、「自分以外の誰かに、自分を理解してもらう」という必要性を消します。

つまり、自分の中で、感情的に安定すると。

 

もうね、これは私の中で「これが、愛されて育った人の感覚か! これが、感情を許されるということか!」と、ちょっとした感動でしたから。

そしてとても落ち着いて、「不安から解放された状態」を味わえたように思います。

 

自分で言うのも何ですが、「ネガティブ療法」と「性質別コミュニケーション療法」は素晴らしいですね(笑

まぁ私のために作ったようなものなので、自分に効果があって当然なんですが(笑

 

こういう心理メカニズムが分かると、うまく自分の感情を制御できて、安心を作れるかもしれません。

 

ということで今日は、「これが愛されて育った人の感覚なのか!」と、初めて実感できたことのお話でした。

今日はここまで~。

この記事をシェア:
Share