今日は、昨日の記事のあとがきと、おまけ日記です。
昨日の記事は、このブログ史上最長でした
いやぁ、昨日の記事は見事にこのブログ史上で、最長の記事になってしまいました(笑
複数日に分けてもよかったんですが、一度でまとめたかったので、とにかく詰め込んでみました。
今日読み返してみると、これは4つの性質分類を理解できていないと分かりにくいので、ちょっと抽象的だったようにも思います。
なので、読んでも「分かったような、分からないような」となりやすいようにも感じます。
もっと具体例で見ると心理メカニズムが分かるかもしれないので、その辺はおいおい説明するかもしれません。
出せるものは出し切った
でもまぁ、私の中では「出せるものは出し切った」という感覚です。
私はブログでも作品でも、何かを作る時は「変にもったいぶらずに、その時出せるものを出し尽くす」というスタイルだったりします。
で、昨日の記事で、もう「私の中にある今までのネタというネタをすべてまとめて、出し尽くした!」という実感です(笑
後は細かい解説をすればいいだけなんですが、今の私に出せるものは、出し切れたな、と。
イメージで言うと、引っ越しの時に家具をすべて引っ越し屋さんに渡して、部屋ががらーんとなったような感覚ですね。
残っているのは、ほうき、ちりとり、ゴミ袋みたいな、小さなものばかり。
なんだかとてもすっきりしたんですが、今までにぎやかだった分、少しさみしさもあるな、という感覚です。
いやまぁしばらくすると、言いたいことが増えてきて、にぎやかになってくるんですが(笑
「内面のこじれを解決する」が主柱だったこと
とはいえ、私の今までの人生では、こういう「内面のこじれを解決する」ということが主柱だったように思います。
もちろんゲーム制作も好きだったし、いろんな研究は楽しいことでした。
ただ、その根底にあるのが、「なんとかして、この苦しさから逃れたい」という思いだったように思います。
人によっては、人生の初期で錯覚を植え付けられたり、それを解決できずに成長せざるを得ないことがあります。
確かにそれは苦しいことだし、解決するのに多くの時間が必要になるかもしれません。
時に、そういう苦しさに耐えきれずに、破滅的になったり、自ら命を絶つ人も多くいて。
実際に、虐待を受けたような人ほど、そういうのはありふれたことだし、日常ですよね。
だってほんの少し間違っていれば、私たち自身もそういう人たちと同じように、破滅的になっていたり、自ら命を絶っていたのかもしれないんですから。
ただ「運がよかった」
そんな中で、私は運良く解決の糸口を見つけられた、ということです。
これはもう、私の能力とかではなく、ただ「運がよかった」としか言いようがないように思います。
ある意味、多くの地雷原がある平原を前に、「この平原を進め」と言われてこの世界に落とされたようなものです。
「苦しい環境に、違う性質を持って生まれ落ちる」というのは、そういうことのようにも感じます。
で、たまたま私は地雷を踏み抜かなかっただけなんだと。
地雷原を歩かなくてもいい
そしてようやく、「地雷原を歩かなければならない、というわけではない」と、気づけたようにも思います。
私たちは、いろんな錯覚を持つことで、地雷原を歩くことを強制されているように感じるものです。
ですが私たちは、「この方向性は、私には合わない」と放棄することもできます。
だいたい、「なんで地雷原がある平原を、生身で歩かにゃならんねん!」とツッコミを入れたくなるでしょ(笑
そして、別の方向にも生きる道はあるんですから。
世の中にはいろんな場所に村や集落があり、私たちはどこででも生きられます。
なら、人とは違う生き方でも、それはそれで一つの生き方のようにも感じます。
確かに可能性が見えない段階では、恐怖でしかないんですけどね。
ですが、そのための質素好きと、ミニマル好きな性質のようにも感じます。
「自分に合わないこと」を頑張ってしまった罪
ちなみにネガティブ療法にしても、昨日の「性質別コミュニケーション療法」にしても、結局は一つのことを言っているに過ぎません。
それが、「哀しいけれども、合わない場所からは離れよう。別の生き方をしよう」ということです。
世界の広さを知れば、抑圧とか、錯覚とか、思い込みとか、こじれとか、そういうものを手放せます。
キリスト教っぽく言うと、今までの「自分に合わないことを頑張ってしまった罪」を受け入れて、贖罪(しょくざい)をして、本来の道へと向かうイメージです。
その「過去の罪を受け入れること」は、確かに苦しいものです。
だから多くの人が自分を正当化して、「私は間違っていない」と現状に居続けるんですが。
ですが私の中では、「自分に合わないことを頑張り続けるのは、やはり罪かな」と感じるようになりました。
ある意味、その「合わないことを頑張り続ける罪」から目をそらして、幸せを得ずに、苦しみ続けることは、もっと罪を重ねることのように思ったりもします。
そして私の中では、日に日にそういう「内なる声」が強まってきたと。
過去の罪も因果も、すべて受け入れよう
なので、「今まで自分がまいた種を、すべて受け入れよう」ということです。
過去の罪も因果も、すべてまるっと受け入れて、不要になったものはいったん終わらせよう、と。
「私が不健康で成り立ち、私が健康になると成り立たなくなる」という関係や状況は、やはりこれも「過去にまいた罪」かなと。
確かにそれは、哀しいことだし、崩壊もあるし、ショックもあるものです。
でも、だからといって「不幸なままでいれば、許される」というわけでもないように感じます。
むしろ因果関係は逆で、「罪を受け入れず、生き方も変えないから、罪を許されずに、不幸なままでいる」ように感じます。
なので、私は自分の「内なる声」を信頼してみようかと思います。
ひょっとするとその先には、自由と喜びがあるようにも感じたりもします。
まとめ
まぁそういう意味でも、今の私に出せるものは出し切れたように思います。
もうすがすがしいほどの、すっきり感があったりします。
ある意味これが、これまでの私がたどった道です。
そしてようやく、抑圧だとか、その辺を多く解決できたように感じます。
私の中でも、「ここが人生での大きなターニングポイントだな」と感じたりもします。
この先がどうなるかは分かりませんが、まぁ当面は好奇心に従ってみようかと思います(笑
そしてこういうときに感じるのが、ただただ感謝です。
今まで、私の語ることについてきてくれて、本を読んでくれて、ありがとう。
過去にお世話になったスタッフさんも、支えてくれてありがとう。
本のチェックや、確認をしてくださった方にも、ありがとう。
いろんな感想、レビュー、励ましのお言葉を、ありがとう。
協力してくれて、楽しんでくれて、支えてくれて、ありがとう。
そしてあなたに、このブログを読んでくれて、ありがとう。
あなたのおかげで、今の私があります。
そしてこれらの内容を、ここにブログとして残しておきます。
このブログにある内容が、少しでも役立てば嬉しいです。
なんだかこのブログ日本語版の最終回みたいなノリになってしまいましたが、日本語版はもう少し延長戦が続きます(笑
こういうのは、早めに終わらせたかったんですよ!
いやまぁ、私がよくやる「1回目の最終回」みたいなノリです(笑
いや、去年の今頃にも似たようなことを言っていたので、実は2回目の最終回ですが(笑
いいんですよ、それが私のブログなんですから!(笑
それに英語版サイトはまだ着手してすらいなくて、日本語版はもうしばらくは続きますので、ご安心ください。
ってことで今日は、昨日の記事のあとがきでした。
今日はここまで~。