今日は、作家さん向けの、しかもかなり専門的なノウハウのお話です。

「セカイ系、抽象系、象徴系物語の作り方」と題して、作り方をお話ししてみましょう。

 

セカイ系、抽象系、象徴系物語

「セカイ系」とかありますよね。

庵野秀明氏の「新世紀エヴァンゲリオン」とか、新海誠氏の「雲のむこう、約束の場所」とか、Key麻枝氏の「One~輝く季節へ~」、「Air」、「CLANNAD」とか、まあそういう作品になると思うんですが。

私なりの「セカイ系」の定義は後で説明しますが、ここでは「世界観が非現実的だけど、壮大で、なんか少し理屈が通っているような気がする」みたいなノリで考えておいてください(笑

 

他にも、「抽象系作品」とか、「象徴系作品」ってありますよね。

フリーゲームの「ゆめにっき」とか、「Ib」とかがこれになります。

これは、あんまり具体的ではなくて、非現実で象徴的な内容なんですが、なんか筋が通っている、みたいな感じで。

 

これらは、全てちょっと抽象度が高いんですよ。

言うなれば、「具体的ではない」と言えるわけです。

それは、ファンタジーだとか、サイキックバトルをするとか、そういう「非現実」という次元ではなくて、「抽象度が上がっている」という次元になります。

 

抽象的な作品とは、「たとえ話」

これは簡単に言うと、「強烈なたとえ話」だということです。

メタファー(暗喩)という言葉は私の教材ではおなじみですが、そんなメタファーを強化した作品だと言えるでしょう。

たとえ話って、こっそりとたとえているので、そのたとえ話の中で整合性を求めても無意味ですよね。

 

例えば、「トキオ君とナナミさんという人がいて、トキオ君は怖いもの知らずで、ナナミさんは臆病な性格です。そんな二人が出会い、仲良くなっていきます」っていう物語があったとしましょうか。

すると、「トキオ君はオオカミです。ナナミさんは羊です。二人が出会い、仲良くなっていきます」という風に、メタファー(暗喩)として、童話で説明できますよね。

オオカミ=怖いもの知らず、羊=おとなしくて臆病、と暗喩できると。

でもそこで、「オオカミが人間の言葉をしゃべるなんて、現実的ではない。整合性なんてないじゃないか」なんてツッコミは無意味ですよね。

それは、たとえ話なんですから。

 

だから、セカイ系物語も、抽象系物語も、象徴系物語も、全て「壮大なたとえ話」だと思えばいいでしょう。

たとえて話をすることで、現実性は薄れますが、分かりやすくなりますよね。

その「たとえ度」に対する考え方を、より広げたものだと思えばいいでしょう。

それを踏まえた上で、これら「セカイ系物語、抽象系物語、象徴系物語」の作り方を見てゆくことにしましょう。


ちょっとした抽象系作品「トキオトナナミ」

まずは、こちらの作品(Web漫画)をご覧ください。

トキオトナナミ(ガンガンOnline)

画面中央辺りにある、「バックナンバー」から閲覧できます。見るのは第1話だけ、冒頭だけでも大丈夫です。

絵と演出は発展途上な漫画家さんですが、プロットはピカイチなので、そういう視点でご覧くださいませ。

「全然セカイ系ちゃうやん」とか突っ込みたくなる人がいるかもしれませんが、ちゃんと後でつながるので安心してください。

 

簡単に物語を言うと、普通の少女漫画的な恋愛物語です(笑

主人公の少女、七海(ななみ)は、極度の人見知りであり、臆病な性格です。

そんな少女が、自分とは全く正反対の、恐れ知らずな性格の青年、時生(ときお)と出会います。

そして学校生活を通して、少しずつ両者は近づいてゆく……という内容なんですが。

 

普通の物語、普通のお約束な展開なんですが、ただ一つ、ちょっと特徴的な設定があるんですよ。

それが、主人公が「ウサギの人形」なんですよ。

普通の少女漫画的な世界観、普通の学校なのに、なぜか主人公だけが人形。

普通に人形が歩いて、しゃべっているわけです。

でも、周囲の生徒たちは、全く違和感を持たずに過ごしていると。

 

「トキオトナナミ」の原型「ピノキオ」

この設定は少し「珍しいな」とか思う人がいるかもしれませんが、この原型は超有名どころであるんですよ。

気づいた人もいるかもしれませんが、これはまさに「ピノキオ」そのものですよね。

ちなみにピノキオは、聖書とコーランに次いで、世界で最も出版されている作品になります。

 

主人公のピノキオは、ゼペットじいさんが作った操り人形です。

で、おじいさんが「本当の子になりますように」と星に願ったら、星の女神が現れて、ピノキオに命が吹き込まれるわけです。

星の女神は、ピノキオに「いい子にしていれば、人間にしてあげますよ」と言います。

そしてピノキオはいい子にならずに冒険をしてゆくんですが、最後に命を賭けておじいさんを助けます。

ただし、おじいさんを助けた際に、ピノキオはバラバラになって、死んでしまいます。

そこで再び星の女神が登場して、ピノキオの優しさに触れて、「いい子でしたね、約束通り、人間にしてあげます」と言って、ピノキオを元に戻して、しかも人間にしてハッピーエンド、というお話です。

 

このピノキオを七海に置き換えて、世界観を少女漫画的な恋愛物語にすると、こうなります

ピノキオは操り人形なのに、人と話すとか、人間になるとか、ありえないでしょ。

でも、「人形が人間になる」というのは、たとえ話ですよね。

 

「トキオトナナミ」で言うと、「人形のように意志を表現できない臆病な性格の主人公七海が、時生(ときお)との付き合いを通して、当たり前の人間のように、意志を表現できるようになっていく」という過程のメタファー(暗喩)、すなわちたとえ話になっているわけです。

ひょっとすると、七海はこの後、「人間になりたい」と思うかもしれません。

そして、「心臓が欲しい、血液が欲しい、体温が欲しい」とか願い、時生の助力もあり、一つずつ得ていくかもしれません。

ならば、心臓=自分の意志、血液=体を動かす力、体温=思いやり、と暗喩できるでしょう。

すると、「自分の意志を表現できるようになる(人間になる)」には、「自分の意志(心臓)」と「意志で体を動かす力(血液)」、「思いやり(体温)」が必要になる、と暗喩できますよね。

 

象徴的でしょ。

でも、筋は通っているわけです。

「たとえ話」ですからね。

 

部分的に「たとえ話」で置き換えれば、筋が通った抽象系作品ができる

じゃあ、これをどうすれば作れるのか。

それは簡単で、その「具体的な物語」がありますよね。

それを、部分的に「たとえ話」で置き換えればいいんですよ。

 

例えば、時生と七海が、普通の青年と少女だったとしましょうか。

普通の青年と少女のバージョンが、「具体的な物語」になります。

で、七海は「まるで人形みたいに、意志を表現できない少女」とメタファー(暗喩、たとえ話)で表現できるわけです。

すると、七海というキャラクターの「実体」だけを、メタファーですり替えてしまうわけです。

すなわち、七海だけが人形になってしまうと。

こうして、「具体的な物語の中に、一つだけ象徴的な要素(たとえ話)が入る」ことになります。

 

「たとえ話」を部分的に入れ替えているだけなので、論理的な整合性はなくなりますが、話の筋はそのままです。

「なんで人形がしゃべるんだよ」とか、「なんで一人だけ人形で、誰もツッコミを入れないんだよ」とかいう不具合は出ますが、物語そのものは機能しますよね。

具体的なものを、たとえで置き換えただけなんですから。

こうして、具体的な作品の中に、一つだけ抽象的な要素に置き換えることができます。

そしてこれを、「何を、どこまで置き換えるか」、という話です。

 

「トキオトナナミ」という作品では、たった1つだけ置き換えられています。

でも、より多くを置き換えれば、より抽象的で、象徴的な作品になる、ということです。

極限まで置き換えれば、「ゆめにっき」のような、かなり抽象的な作品になる、ってことですね。

いや、置き換える法則とかあるんですが、それを語ると長くなるので、今回はそれは省略します。

ただし、抽象度を高めれば高めるほど、具体的ではなくなるので、「なんかよく分からない」という物語になります。

 

まあ、ゆめにっきの作者は、感性で作ったことでしょう。

これを直感で作ることができるのは、やはりすごい能力なんですよ。

ただ、それは理論で作ることもできる、ということです。

 

「名」、「実体」、「関係」という3つの置き換える要素

じゃあ、何を置き換えることができるのか

それには、3つの要素があります。

それが、「属性」、「全体概念」、「関係概念」になります。

まぁ分かりにくいので、ここでは「名」、「実体」、「関係」と言うことにしましょう。

 

一番分かりやすいのが、「名」をたとえで入れ替えることです。

例えば、普通の警察組織とかって、「警視庁特車二課」とか、「内務省公安部公安9課」とか、そういう具体的な名前なわけです。

でも、新世紀エヴァンゲリオンで出てくる組織では、「ネルフ」とか「ゼーレ」みたいなドイツ語の生物学用語なってますよね。

もしくは、エヴァでは「死海文書」とか「使徒」とか、カトリック系な用語になっていると。

これは、より「象徴的な名前」(すなわち暗喩、たとえ話)で置き換えている、ということです。

その世界では、誰も「なんでネルフやねん」、「なんで死海文書やねん」とかツッコミを入れないわけです。

それは、「なんで七海が人形やねん」とツッコミを入れないのと同じです。

 

(以下、余談)

余談ですが、ちなみに、そのネルフとゼーレにも、「名」だけでなく、「関係」というレベルでの置き換えがあります。

「ネルフ(ドイツ語で『神経』)は、ゼーレ(ドイツ語で『魂』)の命令を実行する部隊」という関係があるわけですが、ここは「名」のレベルだけで見ておくので、これは含まないことにします。

あと、ここで置き換えるのは暗喩(メタファー)であり、直喩(シミリー)ではありません。

シミリーで置き換えるとどうなってしまうのかは、こちら(シミリーとメタファーのお話)で説明しているので、今回は省略します。

(ここまでが余談)

 

「名」、「実体」、「関係」で置き換えられると言いましたが、次に分かりやすいのが、「実体」を置き換えることです。

これがまさに、ピノキオであり、「トキオトナナミ」ですね。

七海だけが、なぜかメタファー(暗喩)である人形に置き換えられていると。

でも、誰もそれにツッコミは入れずに、それが当たり前な世界なわけです。

メタファー(暗喩)で置き換えられているから、物語としても普通に進めることができます。

 

「関係」を置き換えると「セカイ系」になる

一番抽象度が高いのが、「関係」を置き換えることです。

これが一番概念的であり抽象的なものになるので、難易度が高いものになります。

 

例えば、CLANNADという作品では、ヒロインの少女が次第に弱っていくんですよ。

それはなぜかというと、「町が汚れていくと、ヒロインが弱っていく」という理屈になるわけです。

「なんで町が汚れたら、ヒロインが弱って死んでいくねん」とかツッコミを入れたくなりますし、全く意味不明でしょ(笑

でもそこには、「環境汚染と町との因果関係」が、「町とヒロインとの因果関係」で置き換えられているわけです。

 

これを具体的なものに戻すと、町を汚していくと、町は苦しんでいきますよね。

そしていつしか、町は汚染されてしまい、死んでしまうと。

すっごい具体的でしょ。

その「因果関係」という「関係」を、「町とヒロインとの因果関係」に入れ替えているだけです。

だから、町が汚れると、ヒロインが苦しみ、弱ってゆくと。

 

「七海という実体」を、「人形」という暗喩(メタファー)で入れ替えましたよね。

それと同じで、「実体」という概念ではなく、「関係」という概念を、暗喩(メタファー)で入れ替えた、ということです。

ちょっと概念的で、分かりにくいかもしれませんが。

 

別の例で言うと、新海誠「雲のむこう、約束の場所」では、「ヒロインの少女がこのまま目が覚めないと、世界は滅んでしまう」という設定なわけです。

「なんでヒロインが死んだら世界が滅びるねん」とか言いたくなるでしょ(笑

それは、「主人公と少女の関係」が、「人と世界の関係」で置き換えられているわけです。

関係が部分的に暗喩(メタファー)で置き換えられているわけです。

 

「主人公にとっては、ヒロインの少女が死んだら、世界が滅びるようなものだ」という「関係のたとえ話」ができますよね。

その関係を入れ替えている、ということです。

主人公の主観的なもの(具体的なもの)から、全人類の客観的なもの(抽象的なもの)へと入れ替えていると。

関係という一部分を暗喩(メタファー)で置き換えているだけなので、「なんでヒロインが死んだら世界は滅びるねん」というツッコミはありますが、物語としては機能しますよね。

 

だから、読み手にとっては、「世界観が非現実的だけど、壮大で、なんか少し理屈が通っているような気がする」という作品になるわけです。

なので、私が「セカイ系」という言葉を定義するなら、「物語における何らかの関係性を、メタファー(暗喩)で部分的に置き換えた作品」だとするでしょう。

「セカイ系」とは、抽象系、象徴系作品の中に含まれる一部の作品を指すものだと。

「名」、「実体」、「関係」の中でも、「関係」をメインに置き換えているものを、「セカイ系」と呼びますよと。

そう表現するのが、今のところ論理的に一番筋が通っているかなと思います。

 

まとめ

なので、セカイ系物語、抽象系物語、象徴系物語を作りたい場合には、どうすればいいか。

それは、「名」、「実体」、「関係」を、メタファー(暗喩)で置き換えればいい、ということです。

具体的なものを、部分的に「たとえ話」で入れ替えちゃいましょう、ってことですね。

そして、その置き換える量を増やせば増やすほど、抽象度は増えます。

そんな抽象度を増やせば増やすほど、より抽象的、象徴的な作品になっていきます。

 

ただ、純粋に同じたとえ話で全てを置き換えると、それは普通に童話や神話になってしまいます。

「トキオ君はオオカミ、ナナミさんは羊」みたいに、全部を動物キャラで置き換えると、同レベルの抽象性になりますよね。

そうではなくて、抽象性にばらつきを与えるわけです。

「七海だけがウサギの人形」、「敵に関する名前だけが死海文書とか使徒とか、キリスト教系の用語を使っている」とか、あえて作品内での抽象度のレベルを変えると。

そうすることで、「たとえと具体性が入り交じっているけれども、筋が通っている」作品にすることができます。

 

分かりにくいですかね~。

ある意味、これを直感で作るタイプの作者は、脳の回路がおかしいと言えるかもしれません。

アインシュタインは、「R」の文字を一生鏡文字(左右反転した文字)で書いていたと言いますが、それと似たようなものです。

抽象性のレベルを合わせられずに、具体性と抽象性の次元が区別できない、そういう能力(言い換えると狂った認識回路)が発揮されたとき、「セカイ系物語、抽象系物語、象徴系物語」ができると言えるかもしれません。

 

普通の人は、抽象度を統一できる能力を持っています。

「周囲が人間なのに、主人公が一人だけ人形なのはおかしい」、「周囲が具体的なのに、主人公だけがたとえ話なのはおかしい」みたいな、論理的整合性を見つけることができて、修正することができます。

ですが、それができないという脳機能障害を抱えた作家が、抽象度に分裂を起こしてしまう時、「セカイ系物語、抽象系物語、象徴系物語」という、「筋が通っているけど、不思議な作品」ができると言えるでしょう。

 

だいぶ概念のお話なので、理解しにくいかもしれませんが。

 

これで一冊の本が書けそうな気がしてきました(笑

興味が向いたら、これの詳しい本も作るとしましょうかね。

 

ということで、今日は「セカイ系物語、抽象系物語、象徴系物語の作り方」ということで、お話をしてみました。

今日はここまで~。