日常や競争に埋もれていると、「何も面白くない」と感じてしまうこともあるだろう。
そんな場合、こんな「楽しむ感覚」を思いだそう。
ある幼稚園で、雨上がりの晴れた日、若い先生が子どもたちにこう言った。
「久しぶりに晴れたから、お庭を3周走ってきなさい」
子どもたちが庭へ出ようとすると、慌ててその先生はこう付け加えた。
「ちょっと待って! 庭には砂場やプールやブランコがあるでしょ。その内側を走るんじゃなくて、その外側を走るのよ。分かった?」
その言葉を聞いた熟練の先生が、その若い先生に問いかけた。
「あなた、どうしてそんなことを言うの?」
「だって、子どもがちょこちょこっと走って、ずるをしたらいけないと思って……」
「見てごらんなさい」
若い先生が見ると、最初に飛び出した子は、ブランコや砂場をぬうように、ジグザグに走った。
これは、普通に丸く走る場合の何倍もの距離になる。
そうかと思えば、他の子どもたちは、後ろ向きに走ったり、目をつぶって走ったり、しゃがんで走る子などもいて、ひとりとしてまともに走っている子はいない。
走り終えて帰ってきた子に、若い先生はこう訊いた。
「どうしてジグザグに走ったの?」
「だって、先生が3周しか走っちゃいけないって言うからだよ!」
大人と子どもで、こうも感性が変わるものだ。
子どもは、楽しむ天才だ。
目の前のことが面白くない場合、次のふたつを考えてみよう。
- 目の前のことが簡単すぎる場合は、難しくする。
- 目の前のことが難しすぎる場合は、簡単にする。
とてもシンプルな対処法だ。
私たちは、劣等感や見栄で、「楽しむ」を忘れがちだ。
「私にはこの程度がお似合い」とセルフイメージが低い場合は、難しいことに挑戦しなくなり、簡単なことだけを繰り返す。
逆に「私はこれぐらいできなきゃいけない」という強迫観念を持つ場合、自分でも実現不可能な高い目標を掲げて、難しすぎて実現できず、次第に口先だけになってゆく。
「目の前のことを、もっと難しくする」、「目の前のことを、もっと簡単にする」、たったこれだけでも、劣等感や見栄は、できなくしてしまうのだ。
ゲームを心から楽しむ人は、何度か普通にプレイして、難易度の調整だけでは楽しめなくなると、「武器縛り」や「タイムアタック」などの工夫をして、自分で楽しみを作り出す。
逆に難しすぎる場合は、攻略本などを見て対策を考えたり、誰かできる人に頼んで、できないところだけをとりあえずクリアしてもらう。
私たちが目標としていることも、同じだ。
簡単な時も、難しい時も、対処法は既に知っていることなんだ。
それを、人生にも応用するだけ。
この「楽しむ感覚」を思い出せば、面白くない日常も、楽しめるようになるかもしれない。
子どもの自由さを、思いだそう。