昨日は私が生まれ育った兄弟環境での教訓話をしたので、今日もその流れで、私が幼い頃に学んだお話でもしてみましょうか。

今日は、「実が欲しければ、花は与えよ」、というお話です。

 

実と花、どちらを優先したらいいのか

私たちは、実も花も欲しいものじゃないですか。

というのは、食べ物だったりお金だったり、自由だったり時間だったりと、実利があるものです。

というのは、見栄とか「人からこう見られる」とか、「格好良く見られる」とか、そういう装飾的なものです。

私自身も、実も花もどっちも欲しいものです(笑

 

ほら、よく「新人賞を取って、華々しくデビューして、そして有名になってお金持ちになりたい」とかありますよね。

「新人賞を取って、華々しくデビューして、雑誌に載って、本を出版して、書店に自分の本が並んで、有名になって、親や友人たちからすごいと言われる」というのが、花になります。

一方で、「お金を得て、好きなことをして生きる」というのが、実になります。

どっちも欲しいものですよね。

 

ただ、私の経験からすると、圧倒的弱者の場合、「実も花も」と両方を手に入れようとすると、うまくいかないことがほとんどだったんですよ。

昨日も触れましたが、私は三人兄弟の末っ子で、上とは年が離れていたので、圧倒的弱者として生き抜かなければならなかったわけです。

そういう社会の中で力がない場合、「実も花も」というのは、難易度高いんですよ。

でも、自分の要望は叶えたいわけです。

 

「実が欲しければ、花は与えよ」

そこで長年の試行錯誤をした結果、行き着いたところが「実が欲しければ、花は与えよ」ということですね。

「花与えよ」ではなく、「花与えよ」というのがポイントです。

そもそも、実だけでなく、花ですら持っていないんですから。

 

実も花も欲しいけれども、一気に両方を獲得するのは難しい。

でも、どちらか一つに絞れば、結構手に入るものなんですよ。

だから、まずは片方に集中して、そちらを得た後で、もう片方に挑む……という戦略をとるようになったわけです。

 

なら、実と花とどちらを優先するか。

で、「実を優先しましょう」ということです。

言うなれば、「花で腹はふくれない」と(笑

実利至上主義になるわけです(笑

 

そして、まずは実を得てゆくと。

綺麗な花は咲かせないけれども、お腹がいっぱいになれるような、そんな美味しい実を作る木を育てるわけですね。

実だけに集中しているので、「他の人からどう見られるのか」とか、「格好良く見られる」、「すごいと言われる」ということは、基本的に手放します。

知らない人が見ると、「あの人の家は、全然綺麗な花がない」と言われて、「あの人は貧しいんだ」と言われるかもしれませんが、それは気にしない、ということです。

で、十分に満足できるようになって初めて、花の方に気を配っていくわけですね。

 

今の私を見ていても、分かるでしょ。

華々しいところなんか一切なくて、電子書籍とか、紙媒体の本に比べたら自慢できませんし、地味ですよね(笑

でも、その分、実利をしっかりと取っているわけです。

華々しくなくていいから、まずはしっかりとファンを作り、お金を得て、自由を得て、遊んで暮らせる日々を優先していると。

 

「花」にも「実」と同等の価値がある

これは、私が兄弟の中で生き抜く過程で、身につけたものだと思います。

たとえ「実も花も」と一挙両得したとしても、その瞬間はいいかもしれません。

でも、その後に兄から「お前、あのときに美味しい思いをしたから、今回はこうしろ」みたいになって、マイナスのことを引き起こしやすいんですよね。

結局、長い目で見ると、プラスマイナスゼロになっちゃったりだとか。

 

でも、花を兄に持たせれば、兄は結構満足するんですよ。

だって、花は実と同じぐらいの価値があり、効果があるものだからですね。

なら、実は着実に入ってくるわけです。

すると、自然と「花」と「実」を意識的に見分けることができるようになります。

「花」を多く作る木と、「実」を多く作る木が、別々にあることにも気づくようになりました。

 

そして私は「花はいいや」とどんどん手放すようになって、代わりに実をしっかりと確保するようになった、ということです。

そして、ある程度豊かさを得たら、少しずつ花を増やしてゆく、という流れになります。

 

人によっては、「花を優先する」ということがあるんですよ。

というよりも、ほとんどの人が、花を優先しているように思えるんですが。

「好きでもない仕事をする」とか、「世間体でやめられない」とか、ありますよね。

クリエイターの人は実を優先する人が多いですが、普通の人は花、すなわちステータスを見せびらかすために、好きでもない仕事を一日中して、奴隷のように労働させられているわけです。

そして、ブランドもののバッグや車を買って、「私の方が稼いでいる」、「俺の方が優れている」と周囲にアピールするために生きていると。

結果として、そんな多くの「花は綺麗だけど、実を作らない木」を維持しなければならないから、奴隷の状態から抜け出せないわけです。

 

実のなる木を先に作れば、先に自由や好きなことをして生きることができるんですよ。

そして、満たされるだけの実を確保できるようになったら、後から花の木を追加することもできますよね。

でも、先に花を作ってしまうと、その花を維持するために、もっと不自由を抱えて、お金を稼ぐために嫌な仕事をしなければならなくなると。

すると、どんなに稼いでも、植えるのは「花のなる木」ばかりなので、奴隷状態から抜け出せなくなるんですよ。

そういう人は、「どんどん実ができる木」という存在自体を知らないのかもしれません。

 

そんな風に、最初にどちらを選ぶかで、結果が全然変わってしまうと。

 

「新天地」は評価されにくい

実だけにちゃんと集中できれば、結構簡単に入ってくるものなんですよ。

それは、一昨日にも触れたように、「新天地」に行って試行錯誤すれば、結構簡単に入ってくるものです。

でも、そういう「新天地」は、多くの場合、評価されません

むしろ、既存の社会からは、「競争に負けた負け犬」と言われるでしょう。

 

実際、昔のアメリカ開拓時代では、アメリカに移住するのは、ヨーロッパでは生きられないような貧しい人たちばかりでした。

だから、アメリカという「新天地」は、ヨーロッパでは結構長い間、「貧しい人たちが移住する場所」というイメージがつきまとっていたわけです。

その後、アメリカがヨーロッパを抜くぐらいに好況になってゆくわけですが、それでもそういうイメージはあったんですよ。

そして誰もが「アメリカにチャンスがある」って気づいた時、移民してももう遅いわけです。

「新天地」の評価、すなわち実と花なんて、そんなものなんですよ。

 

既存の社会では、「新人賞を取って、華々しくデビューして、有名になって、すごいと言われる」ことが、「優れている」というルートができてますからね。

新天地でどんなにすごいことをしても、そのすごさを認めてくれる人は、ほとんどいないんですよね。

だから、多くの人が新天地ではなく、変化を拒んで「みんなに受け入れられたい」という「花」を求めているとも言えるんでしょうが。

でも、新天地で実を着実に取っていると、時代の変化と共に、その人は花を得てゆく、ということです。

 

まとめ

だから、「花も実も」ではなくて、「実を優先する」という考え方もいいんじゃないかと思います。

まずは花は手放して、他の人に与えるわけです。

「すごい!」という賞賛は、人に与えるわけですね。

すると、その分、多くの実が入ってきます。

 

もし自由に、好きなことばかりをして生きたい場合、最初は実を取る方を優先してみるのもいいかもしれません。

すると、結構楽に、24時間、そして一生を遊んでいけるぐらいの可能性は開けますから。

「花は綺麗だけど、実ができずに維持費ばっかりかかる木」を、「花は地味だけど、実がたくさんできて、豊かさを与えてくれる木」に植え替えるだけでも、全く変わるでしょう。

 

そういう「木を見抜く目」とか、「実をならせる木がある」という力を手に入れると、楽に自由に生きられるようになるかと思います。

 

そんな感じで、今日は「実が欲しければ、花は与えよ」、というお話をしてみました。

今日はここまで~。

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