今日は結構どうでもいい雑記です。
「大阪は商売人の発想が多くて、東京はサラリーマンの発想が多いのかな」というイメージについて、お話してみましょう。
大阪の方が、自由なイメージがあったり
私は学生時代に神戸、会社勤め時代には横浜に住んでいたんですよ。
で、今も昔も、私は東京よりも、大阪の方に魅力を感じていたりします。
「じゃあなぜ大阪の方が好きなのか」と言われると、大阪の方がより自由なイメージなんですよね。
そして最近の私の中では、「大阪は商売人の発想が多くて、東京はサラリーマンの発想が多いのかな」というイメージだったりします。
いやもちろん、東京でも商売人的な発想はあるんですが、大阪の方がそういうイメージが強い、ということですね。
健全な主張がある方が、自分を変えるタイプでも生きやすい
何というか、大阪には「健全な主張」があるように感じます。
大阪の人って、それなりに言いたいことを言うでしょ(笑
「大阪のおばちゃん」なんて、もう日本で一番相手のことを考えずにしゃべる人種じゃないかと思ったりもするんですが(笑
一方で、東京の人は、言いたいことをこらえるようなイメージがあったりします。
で、私は主張をして相手を変えるよりも、自分を変えるのを優先して、障害物をひょいひょいとよける感覚で、身軽に生きるスタイルです。
そういう「自分を変えるタイプ」だったとしても、大阪のように健全な主張がある方が、心地よく楽に生きられるように感じます。
すなわち、「主張がある」というのは、必ずしもしんどいばかりではないと。
むしろ、「言わなくても理解しなければならない」という圧力の方が、苦しいこともあるように思います。
主張がある方が、分かりやすい
というのも、主張がある方が、分かりやすいんですよね。
表裏があまりないので分かりやすいし、だから行動を修正しやすいと。
で、主張をする場合、相手を傷つける可能性があるわけじゃないですか。
だから、それを笑いでくるんだり、事情や理由を一つ一つ説明してくれることで、相手に受け入れやすくしているように感じます。
笑いがあると、注意を受け入れやすくなる
実際に、笑いがあることで、注意を受け入れやすくなったことがあるんですよ。
例えば私は、大阪に叔父の夫婦がいます。
なので、私が神戸に住んでいた頃は、時々食事とかに連れて行ってもらったりしたんですが。
その叔父夫婦には子供はいなかったので、私のことを喜んで受け入れてくれて。
当時の私は大学生になりたてで、世の中についてまったく分かっていませんし、社会との付き合い方もさっぱりです。
なので、例えばその夫婦と外食に行ったりする場合、いろいろと叔父が教えてくれるわけです。
「注文して、店の人が料理を渡してくれたらな、黙って受け取らずに、『ありがとう』って言いや。その方が相手も嬉しいやろ」
「店で買う時でも、お金を払って商品を受け取ったら、『ありがとう』って言うんやで。売る方と買う方どっちも『ありがとう』で嬉しいし、顔なじみになれば、たまにおまけもしてくれるで」みたいな。
笑いで教えを与えられる、叔父夫婦の例
でも、それ単体だと、ただの注意じゃないですか。
そこで、奥さんがすかさず叔父に「でもあんた(叔父のこと)、私がいろいろ料理を作ったり洗濯をしても、私には全然『ありがとう』って言わへんやん」みたいな。
それで、叔父が「うひーっ」と言って、その場が笑いに包まれると。
で、叔父は奥さんに「ありがとうな、俺が間違ってた。感謝してるで、愛してるで」とか言って、丸く収まるわけです。
こういうやりとりで笑いを取るのが、この夫婦の一つの持ちネタだったんですが(笑
それでも、こうしてくれると、私はとても心地よくその教えを受け入れられますよね。
だって、私の行動が悪いだけでなく、叔父が自分を落としてくれることで、「叔父にもそういう一面がある。だから間違ってもいい」みたいな安心感があるからですね。
なら、私は変に反発することもなく、素直に注意を受け入れられます。
「そっか、店の人が渡してくれる時は、『ありがとう』って言うものなんだ」みたいな。
私の自尊心が保たれたまま、私は行動を変えることができると。
これって、健全な主張ですよね。
事情をしっかり説明してくれる、カツ丼屋店主の例
それとか、例えば大阪の日本橋に、繁盛していたカツ丼屋さんがあったんですよ。
今もあるかは分かりませんが、先輩と日本橋に行ったときは、よく連れて行ってくれて、おごってもらったりしたんですが。
ちなみに私が一人で行くときは、「食事は菓子パン一つ、もしくはカロリーメイト一袋で済ませて、後は欲しいものにつぎ込む」という攻めのスタイルでしたが(笑
で、そこのカツ丼は、おいしいし、量もあるし、しかも漬け物(たくあん)がおかわり自由なんですよ。
そしてたくあんは、店の人が時々回って、漬け物皿に追加で盛ってくれるわけです。
その時に、「漬け物のおかわり、いりますか?」と言われて、一切れほどお皿に漬け物を残して「お願いします」と言うと、注意されるわけです。
「あのな、漬け物は二切れで出さなあかんねん。一切れは『人を切る』、三切れは『身を切る』言うてな。せやからその皿の一切れ、食べてくれんか」みたいに。
だから、受け入れやすくなる
すると、私は「へぇ、そうなのか」と分かって、受け入れられますよね。
それは、そういう事情を教えてくれるので、理由が分かるからで。
たとえそれが非科学的で意味不明な語呂合わせだったとしても、「食べてくれんか」とお願いされると、私は悪者にならずにすんで、自尊心を保ちつつ行動を変えられます。
で、その店の店主は、私だけでなく、時々お客さんにそうやって注意をしつつ、たくあんを配っていくと。
リピーターはそれが分かっているので、きっと新規のお客さんにそう言っているんだろうと思います。
それは確かに手間だし面倒ですが、その店主はそういう手間をかけて、一人一人にその店のルールを教えているわけですね。
だから、行動を変えるのも苦にならないし、その店の独自ルールにも楽に従えると。
これも、健全な主張だと分かります。
健全な場では、手間をかけている
こういう風に、大阪では主張が重要なんですが、主張をするからこそ、その主張に手間をかけているんですよね。
笑いでくるんだり、面倒でも事情や理由を説明することで、理解してもらいやすくすると。
自分を落とすのは少し恥ずかしいものですし、新規顧客全員に何百回、何千回と「漬け物は二切れで」と説明するなんて、結構な手間です。
でも、そういう手間をかけることで、心地よい関係を作っていることになります。
だからある意味で、健全な主張というのは、自分を変えやすいわけです。
すると、私のような自分を変えるタイプでも、そういう主張がある方が安心するし、自分を変えられて対応できると。
主張ばかりの方が、安心できることもある
以前、アメリカに移住した人が、こう言っていたんですよ。
「こんなに当たり前の、日本では言わなくてもいいようなことまで、いちいち細かく説明するのか」みたいな。
それはきっと、様々な国から、いろんな文化を持つ移民が来ていることで、それだけ説明しなきゃいけないだろうと思います。
で、その説明や主張は確かに面倒くさいんですが、そういう手間をかけている分、やはり健全な主張になるんですよね。
だから、自由な場ほど主張が多くなるように感じます。
でも主張が多いほど苦しくなるわけではなく、むしろ主張ばかりの環境の方が安心できることもあると。
いやまぁ、当然「うるさい」と感じることもあるんでしょうけどね(笑
特に大阪のおばちゃんなんて、げんなりするほどのマシンガントークをかましてきますからね(笑
それに、もちろん大阪だろうがアメリカだろうが、裏表がある人もいるし、抑圧もあるもので。
でも、健全な主張がある場は、だいぶ生きやすいように感じます。
まとめ
なので、自由が好きな人は、そういう「健全な主張の場もあるんだ」と分かると、場を変えやすくなるかと思います。
「気を配らなきゃいけない」とか、「相手の機嫌を確かめなきゃいけない」みたいに、そういう場がすべてではないんですよね。
そういう点では、東京は「分かって当然、配慮して当然」とか、「我慢することが美徳」という考え方があるように感じます。
もちろんそれは一つの美点ですが、それが苦しい場合、そういう場から出ることもできると。
で、「人はわかり合えなくて当然。配慮できなくて当然」と前提とする場もあるわけです。
そして健全な主張がある場ほど、その上で手間をかけて説明してくれます。
笑いだったり、事情や理由だったり、確かに面倒なことでも、一つ一つ説明してくれると。
私からすると、そういう「自分のために、相手が手間をかけてくれる」というのは、一つの愛情のように感じたりもします。
で、そういう場に移るほど、愛情も感じられるし、主張があっても優しくなれて、生きやすくなるかもしれません。
ということで今日は、「大阪は商売人の発想が多くて、東京はサラリーマンの発想が多いのかな」というイメージについて、お話してみました。
今日はここまで~。