今日は、心理メカニズムのお話です。
高共感な人同士の論戦が珍しかったので、その心理を解説してみることにしましょう。
今日はちょっと長文なので、時間があるときにでもどうぞ。
珍しい「高共感な人同士の論戦」
高共感な人って、こじれを持たない限り、あまり批判とか論戦はしないんですよ。
というのも、相手の心情を感じられるので、相手を苦しめることが自分の苦しみにもなってしまうからですね。
でも先日、ちょっと珍しい、「高共感な人同士の論戦(批判合戦)」を見かけたんですよ。
ちょっと時事ネタになりますが、少し前に、こういう事件がありました。
それは、「電車に乗っているマナーの悪い大人を、高校生が注意したら、さんざん暴行された。周囲は誰も、その高校生が殴られるのをずっと止めなかった」というものです。
プロ奢ラレヤー氏と、批判者の主張
で、プロ奢ラレヤー氏がいますよね。
この人は、「人に奢ってもらって、同時にその人の話を聞いて、生活をしてみる」みたいなスタイルで有名になった人なんですが。
そして、その奢ラレヤー氏が上記のニュースを受けて、こういうことを言っていたわけです。
「世の中には近づいてはいけない危険もある。攻撃性が高く、危険な相手に立ち向かうのは、勇気でも何でもない」と。
一方で、とある高共感な人が、SNSでその内容についてこう批判をしていたわけです。
「何を言っているのか理解できない。殴られた高校生を前に、その言葉を言えるのか」と。
以降では、この批判している人を「批判者」と呼ぶことにしましょう。
どちらも一理ある
これって、どちらも一理あるじゃないですか。
奢ラレヤー氏も批判者も、どちらも高共感な人なので、「高校生を助けたい」という思いで解決手法を提案したわけです。
だけど、肝心の高校生を放置して、互いが互いを批判し合って、すれ違っているわけです。
じゃあ、なぜこういう「高共感な人が助けようとしているのに、批判し合う」という現象が起きているのか。
実はこれがまさに、「性質による食い違いと、こじれを持つこと」による2重のすれ違いなんですよね。
なので今日は、なぜこういう「助けようとしているのに、批判し合う」のか、その心理メカニズムについて解説をしてみましょう。
いつもの性格タイプ分け
今回も、私がいつも使っている、性格のタイプ分けをご紹介。
人の性質には、「3つの内向型タイプと、外向型の人がいる」というものです。
特徴は、次図の通りです。
で、今回は高共感な人同士なので、「高共感タイプ」と「HSPタイプ」の対立になります。
- 高共感タイプ:相手を思いやれて、社会で生きるのが合うタイプ。工夫ができないので、社会の価値観に従う性質。
- HSPタイプ:相手を思いやれて、だけど社会の歯車になれないタイプ。社会の価値観に縛られず、工夫をして解決できる性質。
そして結論から言うと、奢ラレヤー氏が「こじれを持つHSPタイプ」、批判者が「こじれを持つ高共感タイプ」ということで、論戦になっているわけです。
相手を変えるか、自分を変えるか
まずは、奢ラレヤー氏の主張から見てみましょう。
奢ラレヤー氏は、「奢ってもらって生活をする」という新たなコンセプトを立ち上げられるぐらいなので、工夫ができるタイプ、すなわちHSPタイプです。
で、彼の言う「危険な相手に立ち向かうのは、勇気でも何でもない」というのは、まぁ理屈は分かりますよね。
ある意味、奢ラレヤー氏は「相手を変えるな。自分を変えろ」というスタイルです。
というのも、奢ラレヤー氏はHSPタイプで社会の歯車になれないタイプなので、「社会の善悪」から距離を取れます。
だから社会の価値観に惑わされないし、「社会には、様々な正義がある。そして正義と正義が戦争をする。だから、誰が正しいかなんて分からない」という立場です。
すると、高校生を助けたければ、「危険に近づくな。個としての知恵を重視しろ」というアプローチになって当然ですよね。
一方で、批判者の主張は、「変えるべきなのは、高校生ではなく、マナーの悪い大人だ」というスタイルです。
というのも、批判者は高共感タイプなので、「属している社会の秩序と安定が善である」という立ち位置です。
すると、「マナーの悪い大人という社会悪を放置して、社会の善でもある高校生を注意して変えようとするなんて、おかしい」となって当然です。
実は両者は両立できる
こういう対立を見ると、多くの人が「どっちにすればいいんだ!」と悩んだり、議論したりします。
でも実は、これはまったく矛盾せずに、両立できるものなんですよ。
というのも、「奢ラレヤー氏が高校生に知恵を与えて助けて、批判者が社会に訴えて、マナーの悪い大人や、傍観者社会を変える」をすればいいんですから。
この発想に気がつけば、単純でしょ(笑
もっと簡単に言うと、役割分担の問題です。
「全体と個人、どちらを助ければいいんだ」じゃなくて、「全体を助けたい人は全体を助けて、あぶれた個人には、助けられる人が残りを助ける」というものです。
政治家と医者は対立せずに、政治で助けられない人は、医者が助ければいいだけです。
「人を助ける」というのは、そうやって役割分担ができるわけです。
こじれが論戦を生んでいる
じゃあ、なぜ両者がその役割分担をせずに、高校生も社会も放置して、不毛に戦っているのか。
それが、両者が抱えるこじれにあります。
まずは、奢ラレヤー氏は、「HSPタイプなのに、高共感タイプのように生きようとしている」というこじれを持っています。
奢ラレヤー氏は、言うなれば普段から「不特定多数の人と面談して、カウンセリングをしている」と言えます。
でも、カウンセラーって、高共感タイプでなきゃできないんですよ。
だって、人とのやりとりは、基本的に強いストレスだからですね。
「苦しんで助ける」をしてしまう
すると、そういう人がカウンセリングをしていると、「自分がストレスで苦しんで、他の人を助けている」という状態になります。
そんなとき、批判者のような「殴られた高校生を前に、その言葉を言えるのか」と言われると、腹が立つんですよ。
だって、奢ラレヤー氏は、「自分が苦しんででも、誰かを助けている」し、「批判者は、誰も自分では助けていないのに、周囲に批判ばかりをしている奴だ」と分かるんですから。
そもそも、「誰かを助けようとしている人」であれば、周囲なんて関係なく、自分から「この人を助けよう」と行動します。
お金や時間を投下して、実際に助けます。
すると、誰かを助けている人であれば、「世の中には助けられない人もいる。それは、役割分担で他の人に任せるしかない」と分かって、「助けている人の批判」をしなくなるからですね。
「誰も助けずに、社会に不平不満を言うだけの人」への怒り
なのに、批判者は「誰も助けずに、社会や奢ラレヤー氏に不平不満を言っているだけ」になります。
なら、奢ラレヤー氏からすると、「批判者は傍観者でしかないのに、傍観者が現場で戦っている人たちを批判している、正義感ぶっているだけの嘘つき野郎だ」と感じて当然ですよね。
実際に、奢ラレヤー氏は、苦しんでもカウンセリングで人々に向き合っている現場側であり、批判者は傍観者側です。
批判者は、傍観しているからこそ、「すべてを助けるべきだ」なんて批判できるわけです。
ある意味、奢ラレヤー氏からすると、「『殴られた高校生を前に、その言葉を言えるのか』と言うが、『その正義感あふれるセリフを、高校生が殴られている現場で言えるのか』」と言い返したくなるんじゃないかと思います。
批判者は、身長も高く体重100キロもある屈強な、明らかにチンピラな男性が、高校生を殴っているわけです。
そんな現場で、止めに入れるのか、今まで批判者自身は、それらすべての社会的問題を止めて生きてきたのか、ということです。
いじめにしろ、虐待にしろ、身体的ハンディキャップや病、孤独や精神的な問題にしろ、誰かを助けようとしたことがある人なら、そんなことは言えなくなります。
だって、誰かを助けようとするならば、私たちは「それ以外のいじめや虐待、孤独を、放置しなければならない」んですから。
「私はこの問題に集中する。他の問題は、他の人に託そう」と他者を信頼しなければ、誰かを助けられないと。
だから、批判者は完全なる傍観者でしかない、ということです。
批判者は外向型のようになろうとしている
一方で批判者は、「高共感タイプなのに、外向型のように生きようとしている」というこじれを持っています。
本来なら高共感タイプは、「社会みんなが評価すること」ではなく、「誰も評価しないけど、助けた相手は喜ぶこと」をすると、輝けるタイプです。
つまり、社会を変えるのではなく、医者のように少数の人を助けるのが合うタイプです。
で、実際に誰かを助けていれば、「自分の力では、世の中には助けられない人もいる。それは、役割分担で他の人に任せるしかない」と分かるので、社会を批判したり、嘆いたりもしません。
なのに、それができていないから、世の中を嘆くわけですね。
外向型のように、「社会が悪い」と社会全体を助けようとしているから、批判になってしまうと。
その「社会を変えよう」とするのは、外向型が得意とする分野なんですから。
まとめ
このメカニズムが分かると、この批判合戦が「性質による食い違いと、こじれを持つこと」による2重のすれ違いだと分かります。
人の性質と役割分担を理解できれば、こういう「一見対立して、両立できそうにない議論」も、両立できると分かります。
これが分かると、「世の中は意外とうまくできている」と分かって、「高共感な人同士の批判合戦は不毛だ」と分かるかもしれません。
ということで今日は、高共感な人同士の論戦が珍しかったので、その心理解説でした。
今日はここまで~。