今日は、日記的な生き方のお話です。
「見栄の威圧」に自信を失わないようにしよう、というお話です。
相手の肩書きや振る舞いで、自信を失ってしまう
相手の肩書きとか振る舞いで、「相手はすごい。一方で自分はダメだ」と自信を失うことって、あるかと思います。
例えば自分がアマチュアなら、相手がプロだというだけで、「相手はすごい。自分はレベルが低い」と感じたり。
自分が独立を目指している段階だと、相手が社長というだけで、「あの人はすごい。自分はダメだ」と落ち込んだり。
他にも、「新人賞」とか「ランキング1位」、「販売数○○」、「売り上げ○○」、「月収○○」みたいなものがあるものです。
そういう「地位」とか「名誉」で誇示されると、私たちからすると、なんだかとても苦しくなりますよね。
そこには、「見栄の威圧」のようなものがあるように思います。
特に、自由に新境地開拓をする人の場合、そういう地位とか評価、見栄とは縁が遠いことが多いじゃないですか。
それで「自分には、そういう評価は何もない」と萎縮してしまったり、自信を失ってしまうこともあって。
でも、そうやって「見栄の威圧」を意識する必要はないように思います。
最近の私は、そういう「見栄の威圧」に気づいて、肩の力を抜けた出来事があったんですよ。
で、この感覚が分かると、「結局は同じ人間だ」と分かって、無駄な気負いを手放せるように思います。
アメリカ人だからといって、理解しているわけではない
ここ最近の私は金融業界にいるんですが、英語を理解できるようになって、経済や金融の原理も理解できるようになってきたように思います。
すると、少しずつ分かってきたことがあるんですよ。
それが、「あぁ、アメリカ人だからといって、経済や金融について理解しているわけじゃないんだな」ということですね。
いや、考えてみれば当然のことなんですが、最初はこれが分からずに「金融業界にいるアメリカ人は、みんなすごい」と威圧されていたように思います。
アメリカって、金融の本場じゃないですか。
そしてそういう金融系の動画でも見ていると、アメリカ人が英語で金融について解説したり、熱く議論していたりするわけです。
時にはチャートや数値を多く使って、論理的に説明していて。
一方で私はというと、日本という辺境の地で、ようやく英語が理解できるようになった程度で、しかも新規参入者なわけです。
すると、それだけでビビってしまうんですよ(笑
「本場のアメリカ人」が、「英語で流ちょうに堂々と」、「経済や金融という専門的なことを語っている」というだけで、なんだかすごくレベルが高そうに見えてしまって。
それで、「うわぁ、私みたいなレベルの低い、末端の人間が入っていいんだろうか」とか、臆していたんですが。
実は臆する必要はなかった
でも実のところ、全然そんな風に臆する必要はなかったんですよね。
というのも、私が英語や経済、金融を理解できるようになると、彼らの多くが、まったく的外れなことを語っていると分かったんですから(笑
これは欧米の文化だと思うんですが、彼らは自分でもよく分かっていないことでも、堂々とした態度で語ります。
議論動画でも見ると分かるでしょうが、彼らはどんなに知らないことでも、あたかも「俺は何十年も学んだ専門家だ」みたいなそぶりで語りますからね(笑
それは、やはり欧米はそれだけ議論の仕方を学んできているからだろうと思います。
欧米はいろんな民族が集まっているし、共感性も低めなので、主張し合って調整する必要があります。
その場合、自信を持って堂々と語る方が、自分の説に説得力を持たせられるし、自分に有利に持っていけます。
だから簡単に言うと、彼らは「自分を専門家のように見せるプロ」なわけです(笑
チャートや数値をやたら多く使うのも、同じように説得力を加えるためです。
たくさんのチャートがあったり、表のように数字が多く並んでいると、よく分からない人ほど「専門的なことを語っている」と錯覚してしまうんですよ。
相手の本質が分かった瞬間
でも私が英語を理解して、そして経済、金融の本質が分かるようになって、そこで改めてそういうチャートや表を見ると、びっくりでしたから。
「こいつらまったく本質とは関係ないことを、自信満々に、無駄に長時間語ってやがる」みたいな(笑
例えばアメリカには「金融の調査や研究をする会社」も多いんですが、そういうレポートを見ると、膨大な量のチャートや分析が書かれているわけです。
そして多くの人が、そういうセミナーに集まって、膨大なレポートを見て、長時間「うんうん、そうかそうか」と納得しているように見えるんですが。
でも実は、彼らは誰一人として、何も理解していなかったと(笑
教える側も、学ぶ側も、誰一人本質が分かっていないんですよ(笑
「アホなことをしている」と分かった瞬間
作る側は、仕事でそういう金融解説レポートを作らなきゃいけません。
だけどよく分かっていないから、意味も関連もないチャートを膨大に提供して、だけど堂々と「関連性がある」と断言します。
そして学ぶ側も、仕事なのでレポートから学ばなきゃいけません。
でも、そういう場では堂々としなきゃいけないから、本当は何も理解していないのに、「そうか」とあたかも理解しているかのように振る舞うと。
こうして、「教える側も、学ぶ側も、分かったふりをして、だけど実際は無意味なことをして、無駄に時間を費やす」みたいなアホなことが起きると(笑
その原因として、根底には「議論では堂々としなきゃいけない」、「理解しているふりをしなきゃいけない」という文化があるからですね。
もう、私はこれが分かって、思わず笑ってしまいましたから(笑
「ああ、彼らはそういう気質なのか」と。
それで肩の力を抜けて、「アメリカ人だからといって、理解しているわけではないんだな」、「同じ人間だ」と、対等に向き合えるようになったように思います。
肩書きや態度で、自分を過小評価しない
でもこういう「肩書きや態度に惑わされて、自分を過小評価してしまうこと」って、結構あると思うんですよ。
冒頭でも触れたように、例えば自分が漫画家を目指していたとしましょうか。
そういう時に、誰かから「私はプロの漫画家です」とか言われると、「うわぁ、すごい人だ!」と感じたりするでしょ。
それとか、自分が独立しようとしている場合、誰かから「私は社長だ」とか言われると、「自分とは違う、レベルの高い人だ!」とか感じたり。
そして「そうではない自分、それになれない自分は、小さな人間だ」と、縮こまってしまったり、自信を失ったりして。
実際は、私たちと大差ない人間
でも実際は、私たちと大差ない人間なんですよね。
言うなればこれは、小学生と中学生の差に似ているように思います。
私たちが小学生の頃、「中学生ってすごい! 自分には信じられないぐらい、レベルの高い人たちだ!」と感じていたかと思います。
だけど、実際に私たちが成長して中学生になると、全然大差はなかったかと思います。
「小学生だった自分が、中学生になった」と肩書きは変わったとしても、自分は自分で同じような感覚だったはずです。
「何かを実現した後の人がすごい」わけではない
それと同じで、「何かを実現した後の人がすごい」とか、「何かになった人がすごい」ということはないように思います。
だって、実現する前も後も、その人は同じその人ですからね。
肩書きが少し変わっただけで、個性も考え方も、性質も、ほぼ何も変わっていないものです。
私たちだって、小学生から中学生になったからといって、プロになったからといって、作品がベストセラーになったからといって、「自分」は変わりませんよね。
肩書きを得る前も後も、自分は同じ自分です。
いやまぁ、もちろん「君子は豹変する」みたいに変わることはあるでしょう。
でもそれは、むしろ「地の自分を出せるようになった」とか、「環境が変わって、ストレスが変わった」という、環境的な要素が強いように思います。
なら、相手の肩書きで相手を「すごい!」と言ったり、「自分はダメだ」なんて過小評価するなんて、無意味だと分かります。
肩書きを得る前も後も、その人はその人だし、私たちは私たちなんですから。
まとめ
これが分かると、無駄な「見栄の威圧」にだまされずに、等身大の自分で生きられそうに思います。
人は、生まれた境遇も、与えられた個性や素質も、環境も違いますからね。
目標に近い場所に生まれた人もいれば、はるか遠くから、ハンディキャップを背負って進まなきゃいけないこともあって。
そんな中で、「今、どこにいるのか(=今の地位)」なんて、関係ないですよね。
それぞれの人が、行きたい方向に、自分なりに進めばいいんですから。
そして肩書きを持っていたとしても、その人は「肩書きを持たない状態のその人」と同じ人だということです。
裏を返すと、「たとえ肩書きを持っていなかったとしても、素晴らしい人は素晴らしい」ということです。
私たちも、「達成した後も、自分は自分だ」と分かれば、無駄に自分を卑下することなくなるでしょう。
「達成したらすごい自分になれる」ではなくて、「どう自分の人生に向き合うか」が大切だと分かるかなと。
すると、地位や見栄に気負うことなく、「人間」として人を判断できます。
そうすると、「自分は自分で、自分に誠実に生きよう」とできて、肩の力を抜いて進めるかなと思ったりもします。
ということで今日は、「見栄の威圧」に自信を失わないようにしよう、というお話でした。
今日はここまで~。
余談
一応名誉のために言っておくと、もちろんアメリカでも本質を突いたことを言う人はいるんですよ。
例えばジム・ロジャーズとか、ウォーレン・バフェットなんて、まさに経済と金融の本質が理解できているように思います。
でも、そういう人の解説は評価されにくいように思います。
というのも、彼らはずっと同じことを言っているからですね(笑
「それ、2ヶ月前も、1年前も、5年前も、10年前も言っていたよね」とツッコミを入れられるし、何も変化がないわけです。
本当はそこに真理があるのに、多くの人が「それはもう聴いたよ」と意識から外して、「聴いたことがない、新しい話」を求めていると。
「知っていること」と「理解して、使いこなせていること」は違うのに。
まぁこの辺はアメリカでも日本でも同じですし、人にはその人なりのスタイルがありますからね(笑
それに、たまたま私とジム・ロジャーズのスタイルが同じだっただけだし、このスタイルがマイナーなのも自覚しています。
この辺の「自分はマイナーなスタイルで生きるタイプだ」と自覚できると、無駄な「見栄の威圧」に影響されなくなって、自分の理論で豊かさを増やせそうに思います。