今日は、生き方のお話です。

常識が覆される体験って、面白いですよね、という実例紹介です。

 

インドに引っ越した女子高生の「常識転換」

面白い記事を発見したので、ご紹介。

「インドでも毎日カレーは食べない」インドに引っ越した女子高生が知った”日本の常識の大誤解”(President Online)

 

記事の内容は、家族でインドに引っ越した女子高生が、いろんな「常識外のこと」に出会ったことのお話です。

「インドでは毎日カレーを食べるわけではない」とか、「牛肉も売っていることもある」、「マンゴーがおいしい」とか、気づきがいろいろあって。

面白い記事なので、実際に読んでみるのもいいでしょう。

 

「常識が覆される瞬間」って、面白いですよね

こういう「常識が覆される体験」って、私は大好きなんですよ。

だって、そういう常識が覆された瞬間って、目からウロコで感動じゃないですか。

言うなればこれは、「この世界には、自分が知らない新たな可能性がある」と、身体で実感できる瞬間じゃないかと思います。

 

つまり、そういう「知らない世界がある」と分かるだけで、現状から出る可能性が得られるわけですね。

だから、好奇心が刺激されて、「新たな世界の常識を取り込むことで、もっと豊かになれそう」と感じて、希望が見えて嬉しくなると。

私の場合、そういう「新たな世界を切り開きつつ、常に希望をもって生きること」が大好きだったりします。

 

で、今日は上記記事の中から、面白い「常識を覆されるエピソード」があったので、私なりに紹介してみようかと思います。

それが、「自分よりも素晴らしい人なのに、悪い境遇に生まれてきた人と出会った」という体験です。

 

インドで出会った「お手伝いさん」

インドでは、お手伝いさんを雇うことが一般的なようで。

それで、上記のインドに引っ越した著者さんも、お手伝いさんを1人ほど雇って、食事作りとかを担ってもらっていたということです。

 

そのお手伝いさんは、料理が上手だし、いろんな多国籍料理を作れます。

その上、英語も圧倒的に上手だし、新しいこともどんどん身につけられるという、たぐいまれなる才能を持ちます。

で、いろんな手伝いをしてくれるようなので、おそらく好かれる性格なんだろうし、相手に優しくできる性格なんだろうと思います。

だから、もう上記の著者さんも、そのお手伝いさんのことが大好きなわけです。

 

「1/3」という分数を理解できなかった

だけど、あるとき「今日は、料理を1/3の量だけ作って欲しい」と言うと、そのお手伝いさんはそれを理解できなかったわけです。

つまり、「1/3」という分数の概念を理解できなかったと。

 

実はそのお手伝いさんは、ネパール系の人で、貧しい村の出身らしくて。

その村は、水道もなく、毎朝水をくみにでなきゃいけないぐらいの場所だったわけです。

で、実際に身長も低くて、身体も細く、幼い頃から栄養や教育には恵まれなかったことが分かります。

 

「自分は豊かだった」という常識転換

そこで著者さんは、自分の持つ豊かさを初めて知ります

「自分は教育を得ていて、水道があって、食べるものがあって、実は豊かだったんだ」と知って、常識転換が起こって、目からウロコが落ちたと。

 

こういう常識転換も、面白いですよね。

普通、私たちは「自分がどれだけ貧しいか」、「どれだけ周囲から引き離されているか」ということを考えてしまうものです。

だから、「どうやってもっと得ようか」と考えてしまうことも多いんですが。

 

より「現実」を知ることで、豊かさに気づける

でも、場所を移れば、「実は自分が豊かで、分かち合うことができるぐらいだった」と分かったりするんですよ。

「今まで生きていた場所って、どんなに豊かでも、満足しない人たちばかりで、貧しい人たちのことを見ようともしない人ばかりで構成されていたんだ」

「彼らはあれだけ豊かなのに、それでも周囲を見下したり、私にも『こうしなきゃ失敗者だ』と脅していたんだ」みたいな。

 

実は世の中は全然そんなことはなく、そういう競争的な環境から出れば、分かち合えるものが見つかるのに。

そういう「現実」を知って、自分の「今まで気づかなかった豊かさ」に気づけるようになった、ということです。

 

「自分だけが幸せに生まれてしまった」という罪悪感

ただ、上記の著者さんは、いろいろ罪悪感を持ってしまうわけです。

だってそのお手伝いさんは、才能もあるし、気立てもいいし、人から好かれるし、努力もしているんですから。

だけどそのお手伝いさんは、「貧しい地域に生まれた」というだけで、教育も得られずに、栄養も得られずに、メイドとして雇われるしかできない状態なんだと。

 

一方で上記の著者さんは、引っ越した当時は女子高生なので、できることは何もなかったんでしょう。

だから、「私だけが幸せな場所に生まれてしまった」と、罪悪感を持ってしまうんですが。

これって、とても優しい感性ですよね。

 

罪悪感を持つ必要はない

ただ私は、そこで罪悪感を持つ必要はないと思うんですよ。

というのも、人の出発点は、いろんな場所があるからですね。

 

例えば私の場合、最近は金融業界や「世の中の仕組み」に好奇心を持って学びまくっているんですよ。

でも、私は生まれた環境でいろいろあって、自分の精神的なこじれを優先して解決する必要があったと。

だから、興味があることも後回しにして、ずっと内面を整えていて、ようやく最近になって解決できたぐらいです。

 

それは不幸なことなのか?

じゃあそれが不幸なことかというと、そうではないように思います。

以前も触れましたが、多くの人が大阪に生まれて東京に旅をしてゆくのに、私だけが博多で生まれてしまったようなものです。

じゃあ、「大阪から東京への旅」と「博多から東京への旅」のどちらが面白いかというと、そんなのどちらがいいとは言えませんよね。

 

確かに、博多~大阪間は人が少なくて、困難だったかもしれません。

でも、それはそれで人とは違う景色を見て歩いてきて、全力で生きてきたことになるんですから。

それが、人としての深さを作ったり、新たな視点を作ることもあると思うんですよ。

 

で、これが分かると、自分よりもさらに悪い境遇で生まれた人に対しても、許せるようになります

例えば沖縄で生まれた人がいて、東京を目指したとしても、それはそれで一つの「その人なりの、人生の旅」です。

 

現実と願望の区別をつける

なら、「自分だけが豊かに生まれてきたから」で罪悪感を持つ必要はないと分かります。

そして、相手が手助けを望んで、自分にできることがあれば、手助けをすればいいでしょう。

 

一方で、相手が望まなかったり、自分にできることがなければ、それは「それが現実だ」で終わらせていいように思います。

というのも、もし「こうするのが幸せだ」とすると、そこには「幸せに対する思い込み」とか、「幸せの押しつけ」が生まれてしまうからですね。

「博多で生まれた人は、普通の人よりも不幸だ」、「沖縄で生まれた人は、もっと不幸だ」、「早く東京に着ける人ほど、旅が楽しいはずだ」という、幸福感の思い込みと押しつけがあるわけです。

 

それは本当に「不幸なこと」なのか

例えば、幼い頃に両足を失った子がいたとして、じゃあなぜそれが「一生不幸なことだ」と言えるのでしょうか。

過去に貧しい環境で育った人とか、過去に虐待された人がいて、じゃあなぜそれが「一生不幸なことだ」と言えるのでしょうか。

それは本当に「不幸なこと」なんでしょうか。

 

私の中では、両足がなくとも、過去が貧しくとも、「自分なりの幸せ」を追求してもいいんじゃないかと思うんですよ。

すなわち、「出発点が遅いのは不幸だ」ということが、自分の思い込みでしかなかったと分かります。

 

同様に、「私は恵まれている。だけど相手はそれを持たない」と感じる場合でも、「それは思い込みの幸福感を押しつけているだけだ」とも分かります。

実際に、重要なのは「相手がどういう幸福感を持ち、自分なりの幸福を追求しているのか」ですからね。

 

「相手がこれから幸せになってゆく可能性」を許そう

そういう「相手がこれから幸せになってゆく可能性」を許せると、出発点の違いは気にならなくなります

それは、「自分の出発点が遅くてもいい」と許せることが、「相手の出発点が遅くてもいい」と許せることになるからですね。

同じように、「自分の出発点が有利でいい」と許せれば、「他の人の出発点が有利でもいい」とできます。

 

だから、「自分だけが豊かに生まれた」からといって、罪悪感を持つ必要はない、ということです。

できることがあれば助力すればいいし、無い物ねだりはしないと。

そうやって、現実と「自分の願望」を区別して、相手の価値観を見て、自分なりにできることをしてゆく、というイメージですね。

 

まとめ

いや~、こういう常識転換も、面白いですよね。

いろいろ考えさせられるし、目からウロコで新鮮で。

私はこういう体験が大好きだったりします。

 

こういう「現実は、思い込みよりもだいぶ広い世界だ」と分かってゆくと、より自由に生きられるかもしれません。

 

ということで今日は、常識が覆される体験って、面白いですよね、という実例紹介でした。

今日はここまで~。

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