今日は人間心理のお話です。

「性質は資産ではない」と分かると、自分なりに生きればいいと分かる、というお話です。

 

「HSPタイプ」を批判する「境地開拓タイプ」

少し前ですが、Twitterでこういう人を見かけたんですよ。

それは、「低共感で工夫ができるタイプ」の人だったんですが、やたらと「高共感で工夫ができるタイプ」を批判しているわけです。

つまり、同じ「工夫ができるタイプ」なのに、その人は「高共感であることは、許せない!」と否定ばかりしていたと。

 

私がよく使う性質分類があるんですが、それで言うと「境地開拓タイプ(次図の右下)」が「HSPタイプ(右上)」を批判していたことになります。

↑ いつものこれですね。

 

「許せない」というよりも「うらやましい」

で、よくよく見てみると、それは「許せない」というよりも、純粋に「うらやましい」という心理だったんですよね。

というのも、なぜ批判するのかというと、その根底には「不公平だ」という感覚があります。

 

その人はアスペルガー症候群で、いわゆる自閉症に含まれるほどの、とても共感性が低い側でした。

そして日本は世界的にも共感性が高い国で、同調意識が強めの社会です。

つまり、「平均的」であることが重視される社会だということです。

 

すると、「周囲の人たちはみんな、共感性が高くて生きやすい。なのに自分だけが共感性がなくて、周囲から性質を否定される」と、苦しんでしまいます。

その場合、「共感性の高さは資産だ」と思い込むようになります。

だから、「共感性の高い側の人、つまりHSPタイプの人ほど先天的な資産を持っていて、不公平で許せない」となって、攻撃してしまうと。

 

性質は資産ではない

このブログは高共感な側の人が多く見ていると思いますが、私たちの立場からすると、「そりゃー違うよ」と感じますよね。

だって私たちからすると、共感性が高いことで悩んでいるんですから(笑

 

つまり、性質は資産ではなく、「持っているからいい、持たないから悪い」というものではない、ということです。

ここで言う「資産」とは、「自分を生き生きとさせるもの」と定義しておきましょう。

 

そういう「性質は資産ではない」と分かると、性質の比較を手放せて、「自分の性質はこれでいいので、自分なりに生きればいい」とできるかと思います。

 

「持ちすぎる」のは問題

実のところ、「自分にない性質は、持っていればいるほど素晴らしい」という感覚は、錯覚だと分かります。

だって先述したように、「共感性が高すぎる」という性質は、私たちにとっては苦しみですからね。

 

別の例で言うと、例えば私たちは、大金持ちを「お金持ちの家に生まれて、うらやましすぎる」と不公平感を持っていたとしましょう。

でも大金持ちは、「お金がありすぎる」と悩んでいるものなんですよ(笑

いやまぁ「贅沢な悩みだ」と感じるでしょうが、それが「低共感な人が、高共感すぎる人に対して、贅沢な悩みだ」と言うのと同じです。

 

例えば「大きすぎる家や土地、多すぎる人脈と人付き合い、多すぎる守るべき財産」は、多くの「管理しなければならないしがらみ」を生んで、自由に動けなくなります。

するとそういう「資産がありすぎる状態」は、ミニマリストだったり、自由に生きたい人にとっては、逆に苦しくなるものです。

だから、「特定の要素や性質は、あればあるほどいい」というわけではありません。

 

「みんな同じ性質」は絶滅しやすくなる

ならその反対で、「みんな同じ性質」ならばいいのかというと、そうでもありません。

実のところ、生命が絶滅を防ぐために、性質はある程度分散しておく必要があります

 

というのも、みんな同じ性質だと、一つの災害や危機が起きたら絶滅しやすくなりますからね。

例えばみんな同じものを食べていたら、その獲物が得られなくなっただけで絶滅です。

同じ気候の地域にしか住めない性質だと、その地域が災害で使えなくなったり、自然変化で気候が変わると、それだけで絶滅です。

 

だから生命はいろんな性質を分散させることで、いろんな場所に適応して、生きられるようになりました。

北極や南極近辺で生きる生物もいれば、砂漠で生きる生物も、深海で生きる生物もいます。

同じように人間でも、例えば「朝型、昼型、夜型」で得意な活動時間帯も変わるし、「視覚でとらえられる色が2色か3色か」で「動くものをとらえるのが得意か、木の実を選別するのが得意か」みたいに変わります。

なので「性質の違いをなくせ」、「○○型人間が成功する」という主張は、生命の原理に反していると分かります。

 

「自分に合わない環境に生きている」だけ

ならば単純な話、「自分に合わない環境に生きている」というだけだと分かります。

性質はいろんな分散があるので、生き方も、生きる場所も、いろんな分散があります。

ただ、「平均的な人は、社会の中央ほど生きやすい」、「個別の性質を持つ人は、その性質に合わせた独特の場所ほど生きやすい」というだけの話です。

 

そしてどちらにしても、生き方のトレードオフ(何かを得るために、何かを犠牲にすること)があります。

以前の記事でも触れましたが、平均的な性質は、「生きる場所を見つけるのが簡単だけど、競争がしんどい」となります。

逆に個性を持つ場合、「生きる場所を見つけるのは難しいけど、見つけた後は楽になる」と。

 

「自分に合う場所」を見つけ出して、移動すればいいだけ

なら、全然他者を批判するようなことではありませんよね。

ただ単純に、私たちがその「自分に合う場所」を見つけ出して、移動すればいいだけなんですから。

 

この全体像を理解できていないから、目先の小手先なテクニックに終始して、変化できないように感じます。

例えばHSPタイプ(高共感で工夫ができるタイプ)の場合でも、「完璧主義はやめよう。ほどほどに生きよう。適当に生きよう。深く悩まないようにしよう」と、「低共感になろう」としている人が多いものです。

それは「性質の分散」の意味が分かっていないし、「反対側で、なさすぎる」ことの犠牲も分かっていないからですね。

 

だから、そういう「低共感になろう」としているほとんどの人が、何も変えられずに延々と苦しみ続けているように感じます。

それは、こういう「生命の全体像」が理解できていないからかな、と思ったりもします。

 

まとめ

なのでこの全体像が分かると、「性質は資産ではない」と分かるかと思います。

性質は「違い」でしかなく、それ以上の意味を追加するものではありません。

 

すると「自分を知って、世界を知れば、自分に合う場所は見つかる」と分かって、性質を変えようとすることを手放せて、自分なりに生きられるかもしれません。

 

ということで今日は、「性質は資産ではない」と分かると、自分なりに生きればいいと分かる、というお話でした。

今日はここまで~。

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