今日は、個性の使い方について、つらつらとお話ししてみましょう。
個性のある人ほど、才能の適用場所を見つけるまでが難しいけど、その後は楽になる、という雑記です。
「周囲と同じようにできないタイプ」の生き方戦略
このブログを読んでいる人は、「周囲と同じようにできない」ってタイプの人が多いかと思います。
周囲のように我慢できなかったり、集団行動ができなかったり、会社や学校などがやたら苦しかったり、自由にしたかったり。
でも、なかなかそれができないわけです。
そして「自分には何が向いているのか」を考えても、何も思いつかないものです。
一方で、我慢なら多少はできるんですよね。
だから多くの人が、自然と「もっと我慢すれば、とりあえず生きられる。なので今は我慢して、その間に快適な生き方を模索しよう」と考えます。
そして実際に、我慢を続けるほど、なんとかなってしまいます。
なので困難が起きるたびに、「もっと我慢すればいい」と、条件反射のように我慢と抑圧を繰り返してしまいます。
すると本来は「快適に生きたい」が目的だったのに、いつの間にか「我慢しなきゃいけない」という手段が目的になってしまうわけです。
我慢ではなく、快適に生きる生き方を見つけよう
なので私の中では、本来の目的に戻る方がいいように思います。
つまり、「我慢を強めるではなく、快適な生き方を見つけよう」ということですね。
そのために、「周囲と同じようにできない」という人ほど、才能を使うのがいいように思います。
そもそも「周囲と同じようにできない」というのは、それだけで「独自のもの」を意味します。
だいたい、「周囲と同じ」イコール「独自ではない」ですからね(笑
そして、「独自のもの」とは、「(ある特定の価値観における)才能」と言えます。
物事は、価値観次第で価値になります。
だから、「周囲と同じようにできない」=「独自の才能を持つ」ということです。
まぁ細かいロジックは抜きにしても、「周囲と同じようにできない人ほど、独自の才能を持ちうる」というのは、直感で「確かにそれで自然だな」と分かるかと思います。
で、才能を発揮するには、「努力よりも、場を探す」、「既存の場を探すよりも、新たなスタイルを作る」という2段階を考えるといいように思います。
すると、その才能を発揮しやすくなるかもしれません。
「努力よりも、場を探す」という発想
まずは1つめの、「努力よりも、場を探す」という発想です。
私の中では、個性のある人ほど「才能の適用場所(生きる場所)を見つけるまでが難しいけど、その後は楽になる」という印象です。
逆に平均的な人ほど「社会ならどこでも生きられる(生きる場所は見つけやすい)けど、その後が努力しなきゃいけないから難しい」と言えるかと思います。
そしてこれが分かると、努力よりも、場所探しを重視できるかと思います。
世の中では、「努力こそが大切だ。努力は才能に勝る。才能がある奴は、努力家には必ず負ける」みたいな物語とか、教えがあるじゃないですか。
でもこれは、才能がなくて、平均的な社会でのみ通じる教えのように思います。
ひょっとすると、「教え」というよりも、彼らの「願望」に近いかもしれません。
彼らは平均的だからこそ、社会ならどこでも生きられるんですよね。
だけど、平均的だからこそ、努力をしなければ優秀になれないと。
そういう意味で、彼らは「生きる場所」を見つけやすいというメリットを持ちます。
ただ、その後の競争がしんどいだけです。
才能は、適応場所を見つけにくい
一方で才能で生きる場合、その逆になります。
才能で生きるには、その才能の適応場所を見つけるのがとにかく難しいわけです。
特に自分軸を持っていて、共感性が高いタイプの人なんて、自分の個性が何に使えるのかさっぱりでしょ(笑
例えばアニメや物語が好きだったとしても、漫画家になれるわけでもないし、映像監督になれるわけでもないわけです。
適当に絵を描いてみても、漫画や小説を作ってみても、才能もないし、出してみても全然拡散しなくて。
すると、自分がどんな才能を持っているのか、さっぱりイメージできないものです。
だから才能を発揮するまでの前段階で、猛烈な難しさがあるわけです。
平均的な人からすると「才能を使う奴はずるい。何も苦労していない」と思われがちですが、そうではないんだと。
彼らはその「才能を発揮できる前段階の大変さ」を理解できていないから、「楽をするばかりでずるい」と感じているだけです。
才能と努力は、ただのトレードオフ(何かを犠牲にする代わりに、何かを得ること)でしかないと分かります。
そしてその才能の適応場所(生きる場所)をうまく見つけられると、その後が楽になる、ということですね。
なので、個性を持つ人は、「人生では最初ほどしんどいけど、後から楽になる」という流れです。
「既存の場を探すよりも、新たなスタイルを作る」という発想
ならどうすれば才能の適応場所を見つけられるか、という問題です。
そこで、2つめの「既存の場を探すよりも、新たなスタイルを作る」という発想がよさそうに思います。
私の中では、個性のある人が「自分が何に向いているのか」と考えても、まったくの無意味に感じます。
というのも、「何に向いているのか」という「向いている形」自体が、既存のポジションを意味します。
一方で「個性」は、独自のもの、すなわち「既存のポジションではないもの」を意味します。
だから、「個性のある人が、自分が何に向いているのか考える」というのは、「既存のポジションに向かない素質を持つ人が、既存のポジションを探そうとする」と言えます。
これって、「背の低い人が、背の高い人向けの仕事を見つけようとする」のと同じように無意味に感じます。
「ピンポイントで、どういうスタイルを作るか」を考える
だから個性のある人は、最初から「まだ世の中にないスタイルを作ろう」とする方が、発想しやすいように思います。
で、そのために、「私ならこうする」という、ピンポイントの要素を見つけてみるのも一つの手でしょう。
自分の好きなジャンルの作品とか、好きな作品でも、「この部分においては、私ならこうする」と不満になる点があるかと思います。
例えば漫画でも、「この部分は、私ならこういう構図にする」とか、小説なら「この部分は、私ならこのキャラにこう反応させたい」とか、不満な点がピンポイントであるかと思います。
その「ピンポイントの不満」が、多くの場合で強みになります。
そのために、その「ピンポイントの不満」を解決するための、「ピンポイントの体系」を作ってみるわけです。
これは、「その部分だけに集中する」ということですね。
例えば好きな漫画で不満な点があったとしても、「自分がその部分を修正した、漫画全体を描こう」ではなく、「そのピンポイントのみに焦点を当てた、何か」を作るわけです。
それは教材かもしれませんし、ごく短いストーリーだったり、原理の説明や解説だったり、素材集になるかもしれません。
彫刻が好きで、「彫刻全体は素晴らしいけど、エンブレムが気に入らない」という不満がある場合、エンブレムのみに集中します。
ピアノが好きで、「あの人の演奏は好きだけど、この部分の演奏だけが気に入らない」という不満がある場合、その部分の演奏にのみ集中します。
すると、「私ならこうする」という点には、自分なりの「こういうものがいい」という価値観と、それを実現するための工夫があるんですよね。
才能とは「価値観と工夫」なので、そこに才能があると。
なら、独自の価値観と工夫があれば、それを出せば、ピンポイントで圧倒的なものを作れます。
そうやって独自スタイルで、存在感を作ってゆくわけです。
だから、例えば「私は物語が好き」という場合でも、作っているものは解説書とか、素材だったりすることもあるんですよ。
物語が好きだからといって、物語を作るわけではないと。
認識のズレを正す
そして、「続けていると、嫌になる」という場合、「認識がズレている」と分かります。
例えば私の場合、ずっとゲーム制作が好きだったんですが、不思議なことに何度も作っていると、単調な制作自体に飽きてくるんですよね。
それで判明したのは、私は「新たなツールの原理や仕組みを学んで、実際に使い方を試すのが好きだった」ということです。
ゲーム制作では、いろんなツールを使うじゃないですか。
その使い方を学んで、「こうやったら、こういうイメージを作れるかな?」と試して、「できた!」と喜ぶのが好きだったと。
だから私は今、それをさらに発展させて、「見知らぬ概念や出来事に触れて、知って、その原理をブログや本で解説する」ということをしています。
中でも、「見知らぬ価値観に触れる」みたいな、目からウロコ体験が大好きなんですが。
つまり私は今も、ゲーム制作で楽しんでいたことと同じものを楽しんでいるわけです。
最近の私は金融業界にいますが、ここでもそういう「見知らぬ体系や原理に触れる」ということをしているだけです。
そういう風に、「好き」の認識がズレていると、「続けていると、嫌になる」という現象が起きます。
逆に、うまくピンポイントで「これが好き」というのが分かると、どんどん独自なものを作れるようになります。
この「好きなもの」は、一度見抜ければ「なんでこれに気づかなかったんだろう?」と楽なんですが、見抜けるまでが大変なんですよね。
言うなれば、「ウォーリーを探せ」とか「2つの絵に8つの違いがあるのを見つけよ」みたいなクイズと同じです。
見つけたら「ここにあったのか!」とすっきりするのに、見つけるまでの視点変換とか、発想転換が大変だと(笑
多くの人が、「漫画家」とか「小説家」、「ブロガー」、「YouTuber」みたいな「既存のポジション」しか見えません。
「好き」=「既存の形」と思い込んでしまうわけです。
だけど、その「好き」を「まだ世の中にないもの」ととらえると、認識のズレを減らせるかと思います。
まとめ
だから個性のある人ほど、遠慮なく才能を使って生きるのがいいかと思います。
個性のある人は、「才能の適用場所(生きる場所)を見つけるまでが難しいけど、その場を見つけた後は楽になる」ということです。
それは不平等ではなく、トレードオフに過ぎません。
個性を持たない人たちの、「努力こそすべてだ! 努力は必ず才能に勝つ!」というねたみに負けないことですね。
才能がある人は、才能を使えばいいように思います。
そのために、「自分に何が向いているのか」ではなく、「ピンポイントで、どういうスタイルを作るか」を考えわけです。
個性がある人ほど、「自分に何が向いているのか」を考えても、まずムダです。
最初から「まだ世の中にないスタイルで生きよう」とする方が、楽だし、本質を射抜けるかと思います。
すると「努力よりも、場を探す」、「既存の場を探すよりも、新たなスタイルを作る」とできて、個性を発揮しやすくなるかもしれません。
ということで今日は、個性のある人ほど、才能の適用場所を見つけるまでが難しいけど、その後は楽になる、というお話でした。
今日はここまで~。