今日は久しぶりに、精神的なお話です。

なぜ「サンタさん」という架空の存在を使って、プレゼントを与えるのか、というお話をしてみましょう。

 

クリスマス!

クリスマスですね~。

私は人混みがあまり好きではないので、みんながお祭りをしている時は静かにしていて、人がいない平日にいろいろ出て楽しむのが好きだったりします。

とはいえ、クリスマスは1品ほど食後のデザートを追加したり、料理もよくしたりと、ちょっとした贅沢を楽しんでいたり。

 

で、ふと思ったんですよ。

なぜ「サンタさん」という架空の存在を使って、プレゼントを与えるのか、ということです。

 

まぁ元は聖ニコラウスの伝説とかあるんでしょうけど、それでも「私からです」と言えばいいのに、「サンタさんです」と使っているわけで。

なら、なぜそんな風に「私」ではなく、「サンタさんがプレゼントを与えてくれた」となったのか。

今日は、その理由を私なりに考えて説明してみようかと思います。

 

欧米でのクリスマス

結論から言うと、それが「自分は見放されている」と感じている子に、「見捨ててはいないよ。あなたを見守っている人が、どこかにいますよ」というメッセージを与えられるから、じゃないかと思います。

で、これが分かると、より心地よい分かち合いができるかもしれません。

 

それを説明するために、ちょっと欧米でのクリスマスを見てみましょう。

 

欧米でのクリスマスは、結構チャリティー的な要素もあるようなんですよ。

例えばアメリカやイギリスのスーパーには、フードバンクのコーナーがあって、「寄付用の食料品」を入れるコンテナがあるとか。

で、買い物客は、例えば食べ物を4つ買ったら、1つは寄付のためにその箱に入れると。

そして、フードバンクの職員がそれを回収して、貧しい人たちに配ってゆく、みたいな。

 

私はこういうシステムって、とてもいいと思うんですよ。

というのも、「自分よりも貧しい人や、見放された人がいる」というのを実感できるし、分かち合いやすいからですね。

 

「見捨てられている」側に目を向ける

これ、私たちが子供の頃とか、子供たちを想像してみると、感覚的に分かるかと思います。

例えば私たちが、クリスマスに大量のお菓子をもらえたとしましょうか。

で、喜んでいると、「何ももらえなかった」とか、「親も働いていたし、家で一人きりだった」みたいに、暗くなっている別の子がいたりするわけです。

 

すると、「自分のところにたくさんあるものが、他の人には足りないこともある」って分かりますよね。

なら、私たちが困らない程度に、お菓子をその子に分けてあげることができると。

そうして分かち合うと、その子は大きく喜んだりするんですよ。

 

「見放されていない」という安心感

そして、私たちが正体を明かさずに、名を伏せて分かち合う方が、相手はより喜ぶように思います。

例えばこっそりその子の下駄箱とか、引き出しに、お菓子を入れておくわけです。

「メリークリスマス」みたいな言葉も添えて。

 

すると、相手が「自分は世の中から見捨てられている」と落ち込んでいるほど、きっと大きく喜んでくれると思うんですよ。

というのも、苦しいのは「自分は世の中から見捨てられている」という孤独感だからですね。

「社会からも、人々からも、天からも、神様からも、見放されている」、その孤独感が、苦しみを生むわけです。

 

聖ニコラウスのメッセージ

でもそんなとき、誰からか分からない人から、プレゼントをもらえるとどうでしょう。

それは、「誰かが自分を見守ってくれている。自分は誰からも見捨てられているわけではない」と分かります。

いやまぁ、現代の大人なら「ストーカーかも」とか思うかもしれませんが(笑

でも、「見捨てられている」と深く孤独感を持っている子の場合、そういう「どこからか見守ってくれている人」の存在は、大きな励みになるように思います。

 

正体が誰か分からない人からのプレゼントというのは、そういう「見捨ててはいないよ。あなたを見守っている人が、どこかにいますよ」というメッセージじゃないかと思います。

だから、「サンタさん」という架空の存在を使う用になったんじゃないかな、と思ったりもします。

ある意味、「聖ニコラウス(サンタさんの元ネタキャラ)は、あなたを見放してはいないよ」というメッセージなのかもしれません。

 

あえて影の方に目を向ける

で、世の中がお祭りの時ほど、そういう「自分は見捨てられている」という子が増えやすくなります

というのも、お祭りの時ほど、みんなが光り輝く方に目を向けやすいからですね。

でも、光が輝くと、影の部分も強くなるわけで。

実際に、苦しい状況にいる人ほど、「周囲の幸せそうな世界について行けない」とか、「自分だけが見放されている。見捨てられている」と感じるものです。

 

なら、そういう時に、そっと名を伏せて、「見放されたと感じている子」に分かち合うわけです。

 

「見放されている」という子に与える

ちなみに、「私は与えられるべきだ」と思っている人には、与えなくていいんですよ(笑

それはまだ、傲慢さが残ってますからね。

そういう人に与えても、傲慢さが増えるだけで、喜びにはなりません。

むしろ、害を助長させるだけなので、与えない方がいいでしょう。

 

そうではなくて、「見放されている」とどん底にいる人に、分かち合うと。

どん底にいる人に与えると、心から喜んでもらえます。

 

「一切苦しまず、喜びしかもたらさない」分かち合い

そしてその分かち合いは、私たちにまったく苦しみにならずに、むしろ喜びしかもたらしません

というのも、分かち合うものは、私たちにとって「余ったもの」だからですね。

余っていないものとか、自分にとって重要なものを分かち合う必要なんてありません。

 

もしお金やお菓子もなく、何も余らせていない場合、「言葉」を分かち合うのでもいいかと思います。

言葉はタダですが、人に勇気や希望を与えることも多いですからね。

なので、普段よりも優しい言葉を、苦境にいる人たちに分かち合ってみるのもいいでしょう。

今なら、SNSとかで、優しい言葉を使ってみるとか。

 

そうすることで、大きな豪華さを得ようとしなくても、自分の豊かさを感じられるんですよね。

だって、「自分には余らせていることなのに、それが決定的に足りない人もいる」と、自分の豊かさが分かるんですから。

 

「神様のダイス」のお話

私自身は、「どんな境遇に生まれ落ちるか」なんて、「神様がダイスを振って決めたことだ」と思ってます。

つまり、私は私のような境遇で「偶然」生まれ落ちてしまいましたが、他の人も「偶然」その環境に生まれ落ちてしまったと。

私がそういう境遇になった可能性もあるし、「私と似たような境遇の人が、どんどん死んでいるのに、私は運よく今まで生き抜けた」という感覚です。

なら、そういう偶然を受け入れるのであれば、「自分よりも苦境にいる人が欲していて、自分に余らせたものがあるなら、分かち合いたい」と感じるんですよ。

 

こういう「神様のダイス」を感じられると、自分よりも弱い人に、もっと優しくできるかもしれません。

そしてこういう感覚を得られると、「周囲と同じように、派手なパーティーをしなきゃ」とか、「周囲よりも特別なことをしなきゃ」なんて必要はなくなります。

むしろ、「その分を、ちょっと分かち合ってみるのもいいかな」と感じるものです。

もちろん、「余らせたもの」なので、「自分の喜びを削らない程度」という制限付きです。

 

まとめ

この辺の「見放された人たち」という影の部分を見て、余っているものを分かち合えると、深い満足を得られるように思います。

特に、共感性の高い人ほど、こういうのが喜びになるかなと。

大きな贅沢をせずとも、「少し贅沢を楽しめればいいかな」とできるし、むしろそれで心地よくなれると。

 

日本ではただのパーティーですが、欧米の伝統的な風習には、そういう要素も感じられるんですよね。

で、そういう本質部分を取り込めると、より物質的にも精神的にも、「満たされた」と感じられる1日にできるかもしれません。

 

そしてこのお話が、私からみなさんへの、今年のクリスマスプレゼントです。

 

ということで今日は、なぜ「サンタさん」という架空の存在を使って、プレゼントを与えるのか、というお話でした。

それでは、よきクリスマスを。

メリークリスマス!

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