今日はお休み日記です。

 

ネガティブ療法については、まとめる方向で動いてます

ちなみにネガティブ療法については、だいたい出し尽くしたように感じます。

なので、ネガティブ療法の内容は、何らかの形でまとめておこうかな、と思ってます。

 

今のところは、本のような有料の形ではなく、誰でも見られるような、ウェブページか何かでまとめようかと思ってます。

まぁ「あまりお金を取るようなものではないかな」とも思ったりするんですよね。

シンプルに、だけど長期的に残せるように、形を考えているところです。

 

なのでこれからは少しずつ内面から離れて、世の中の仕組みについて多く説明してゆこうかと思ってます。

とは言いつつ、今日も内面のお話をするんですが(笑

ここは私が好きに語るブログだから、いいんですよ!(笑

 

「自分の内なる声」に従うタイプ

ちなみに私は、「自分の内なる声」に従うタイプだったりします。

だから、モチベーションが出ないことは無理にやらないし、「これをやりたい!」と情熱的に感じることを優先して取り組む、という形にしています。

 

私はじゃんじゃんロジックを語っていますが、根本的な「生き方の方向性」は、理屈よりも、内なる声で判断しています

順番が「内なる声」→「理屈」だということですね。

まずは「内なる声」に聴いて、どの方向に進みたいのかを決めます。

そしてその後で、「どう進めばいいだろう?」と戦略をロジックで詰めてゆく、という流れです。

 

長期で見ると、不思議と収束してゆく

これは常識だと、「ふらふらと不安定になりそう」と予想するかと思います。

だけど実際は、自分軸を持つ人ほど「長期で見ると、不思議と必然的な方向性に収束してゆく」になるように感じます。

 

自分軸がない場合だとか、短期だけで見ると、「内なる声に素直に従う」というのは確かに不安定になるんですよ。

行動もちぐはぐになるし、言っていることとやっていることが支離滅裂になって、自分でも「なんでこんなことをするのか分からない」と、矛盾だらけのように感じられます。

 

例えば私がネガティブ療法を見つけた時も、最初は「なんでこんなに海を眺めたくなるのか、分からない」と、自分でも意味不明でしたからね。

自分の心がなぜそれを求めるのか、理屈で説明できないんですよ。

 

でも長期目線で見ると、やはり「これが必然としか思えない」という流れに収束するように感じます。

それは、どうしても「自然と強く引っ張られる方向性」があるからのように思います。

 

「他者の価値観」ほど確かなものに感じやすい

ある意味、私たちの心は、自分が何を求めているのか、本当は分かっているんじゃないかと思います。

それを、表面の意識がごまかしたり、煙(けむ)に巻いているだけじゃないかなと。

 

だいたい私たちは、「確かなもの」を求めます。

で、抑圧を持つ場合、「他者の価値観」ほど「確かなもの」にしやすいように感じます。

というのも、それは「こうしなきゃ。こうすべきだ」と、強い言葉で私たちにうながすからですね。

 

だけどそれは、裏を返すと「手放すのが怖い」となります。

だから手放そうとすると、「堕落するだけ」とか、「迷いを生むだけ」、「何も大成できないだけ」、「一度手放すと、取り戻すのに大きな損をする」みたいに、私たちに恐怖を与えます。

そうして私たちは、「恐怖で支えられたもの」を「確かなもの」と錯覚してしまうわけです。

 

「自由」を「確かなもの」にする

一方で「自分の価値観」は、「自由」を「確かなもの」とすると言えるでしょう。

だから自分の価値観で動く場合、手放すことを恐れません。

というのも、「自分の価値観」とは方向性なので、方向性はいつでも取り戻せますからね。

「一度手放しても、後で必要だと分かったなら、またその方向に戻ればいいや」とできます。

 

なので「短期では支離滅裂になっても、長期で見ると、不思議と必然的な方向性に収束してゆく」と言えます。

確かにスタートラインは、人よりも遅くなるかもしれません。

ですが、納得できる道なので、「道を歩くこと自体」が心地よくなります

 

「他者から認められなければ納得できない道」から、「歩くこと自体が納得できる道」になると。

なので「成功」を「自分が納得できること」と定義すると、結果として「自分の価値観で歩き始める方が、多くの場合で早く成功する」と言えるでしょう。

 

仮面をイメージしてみると、自由が感じられる

こういう「自由を確かなものとする」という状態は、仮面をイメージしてみると分かりやすいかもしれません。

私たちには仮面があって、ぱかっと私たちの顔からはがすことができます。

 

で、その仮面は「あれをすべきだ! これをすべきだ!」と、強い言葉で私たちに叫んでいます。

なので、私たちは「いつもうるさいなぁ」と苦笑いをして、少しその仮面を箱の中に入れて、その声を遮断します

 

そしてふと見ると、「窓の外には、森が広がっていた」と気づいたりするんですよ。

鳥がさえずり、木漏れ日が緩やかに降り注いで、穏やかな世界が広がっているわけです。

仮面を外すことで、初めてそういう「自分は静かな自然の中に住んでいて、いつでもその自然に触れられるんだ」と気づけるわけです。

 

だから「マイペースに生きよう」とできる

なら、そういう状況で「堕落するだけ」とか、「迷いを生むだけ」、「何も大成できないだけ」なんて言葉は、無意味だと分かります。

だって、一歩外に出ると、静かで豊かな自然が広がっていますからね。

 

もちろん自然はいろんな厳しい側面も持ちますが、生命が生き生きとして生きることを否定しません。

なら、「マイペースに生きよう」とできて、自分にとって納得できることに取りかかればいいと分かります。

 

すると、「あれをしておきたいな」という、自分に身近で、自分にとって豊かさを増やすものから思いつくでしょう。

最初は「あの棚を直しておきたいな」とか、「ちょっと汚れてきたから、掃除をしておこうか」みたいな、小さなことかもしれません。

で、そういう小さなことが終えると、「こういう小さなメッセージを、世の中に残しておこうかな」という、ちょっとしたメッセージ性のあるものが出てくるかもしれません。

そうやって、小さなこと、大きめなことを含めて、マイペースで進んでゆく流れですね。

 

「いつか、誰かに届けばいい」という余裕

ちなみに「自分の価値観」と「他者の価値観」でも、どちらも「生きた証を残したい」みたいな欲求はあります。

ただ、「自分の価値観」の場合、「必要とする人にだけ届けばいい」という、穏やかな感覚になるかと思います。

「これで成功する!」ではなく、「喜んでくれるといいな」という、柔らかい感覚です。

 

場合によっては、それは「今すぐ、この人に」と特定の人を喜ばせようとするのではなく、「いつか、誰かに届けばいい」と、余裕を持たせることもあるでしょう。

で、いつの間にか、仮面を箱に入れていたこと自体を忘れてしまっている、みたいな感覚です(笑

 

まとめ

そういう「内なる声に従うと、不思議と必然的な方向に収束してゆく」という感覚でも、未来を開けるように思います。

「自分でも、なんでこんなことをするのか分からない」と感じるようなことに、実は自分の本心が隠されていたりするんですよね。

 

すると「理屈を越えた力」を実感できて、予想もできなかったような未来が開けるかもしれません。

 

ということで今日は、お休み日記でした。

今日はここまで~。

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