今日は、生き方のお話です。
「理想と、それに続く茨の道」から目を外して見ると、可能性が見える、というお話をしてみましょう。
パートナーとの関係が悪くなった、という相談内容
先日、こういう質問をいただいたので、ご紹介。
子供は5歳と3歳の息子がいます。
私も妻も自分の家族に色々な問題をかかえており、(中略)不完全家族で育ちました。
妻が、昨年浮気をしました。(中略)そこから全てが崩れてしまったように感じます。
お互い赦して、子供のためにもう一度再構築したいと考えていますが、これって、私が妻を捨てられるないだけなのかも、とあやえもんさんのブログを読んで感じました。
子供が2人いるので、夫婦だけなら価値観が違うねで別れられるところかもしれませんが、(中略)どうにか家族一緒にいる方法を模索してしまっています。
内容はというと、「パートナーとの関係が悪くなって、どうすればいいのか」ということですね。
質問者さんは、夫婦共に機能不全家族で育って、いろいろあったと。
で、結婚して子供も得たけれども、少しずつ距離が開いていって、心理的な対立がだいぶ深刻化してしまった、という流れです。
そして「どうすればいいのか、参考となる考え方が欲しい」という内容です。
「理想の状態にしたいけど、できない」苦しみ
こういう風に、「理想の状態にしたいけど、どうしてもそれができない」、「強引にでもそれを実現しようとすると、うつになって苦しく感じる」ってこと、あると思います。
例えば今回の場合、「夫婦許し合って、家族で仲良く、幸せに暮らしたい」というのが理想ですよね。
でも、「感性で合わない相手と一緒にいる」と考えるだけで、もう苦しさがどーんと来るじゃないですか。
じゃあ、どうすればいいのか。
こういう場合、「理想と、それに続く茨(いばら)の道」から目を外して見てみるのもいいかと思います。
すると、新たな可能性が見えるかもしれません。
ちょっとその道から目を外してみる
実のところ、この「理想に近づけたいのに、理想に近づけようとすると、引き裂かれるような痛みを得る」というのは、手段の狭さから生まれます。
茨(いばら)の道しか目に入っていない状態で、「そこを進まなきゃ、目的地(心地よく生きられる状態)にたどり着けない」と思い込んでいるわけですね。
でも、「ちょっとその道から目を外してみましょうよ」ということです。
これを説明するために、夫婦関係ではなくて、親子関係や会社との関係を見てみましょう。
親子関係と会社の例
これと同じような「理想と、それに続く茨の道」は、夫婦同士でなくとも、親子や会社でもあるかと思います。
例えば親子の場合、「親子許し合って、家族でわかり合えて、仲良く幸せに暮らしたい」という理想があるかもしれません。
でも、どんなにこちらが許そうとしても、親はどんどんこちらに要求してくるし、土足で踏み込んできたり、嫌なことをしてきて、苦しんでしまうと。
そうして、「許し合いたいのに、できない。どうすればいいのか」と、引き裂かれるような苦しみを味わうわけです。
他の例だと、会社の場合、「普通に会社勤めをして、サラリーマンとして生きよう。それで人並みに、幸せに暮らしたい」という理想があるかもしれません。
これも、同じように「普通に会社勤めをしたいのに、自分には我慢ができない」と、うつやストレスで苦しんでしまって。
で、「私は人並みの幸せですら、得られないのか」と、自分があたかも失敗者のように感じてしまうわけです。
幸せに生きる方法は、いくらでもある
これって、少し価値観を広く取れる人からすると、とても「思い込みが強いな」と感じるかと思います。
というのも、幸せに生きる方法は、それ以外にもいくらでもあるからですね。
例えば親子関係だって、よくよく考えると、別に「親子一緒に暮らす」のが幸せだとは限りませんよね。
親は親で友人や仲間たちと楽しく生きることもできるし、私たちも友人や仲間たちと楽しく生きることもできるわけで。
なら、「無理に許し合う必要なんてないよね。別に許し合わなくても、互いに幸せに生きられる」と分かります。
つまり、親子別々に暮らしている人からすると、「親子一緒に暮らすのが普通」という「普通」は、全然普通ではないと。
会社でも同じで、大企業のサラリーマンができないのであれば、小さな企業に移るなり、独立すればいいわけで。
独立している人からすると、「普通に会社勤めをする」という「普通」は、全然普通じゃないわけです。
その「理想」や「茨の道」にこだわる必要はない
なら、その「理想」や「理想に続く茨の道」は、全然こだわることではなかったと分かります。
だって、他にももっと、互いが幸せに暮らせるような、いろんな手段があるんですから。
そのために、「ちょっと価値観を移動させてみましょうよ」ということです。
「この理想を、この道で実現しなきゃ、ダメだ。それ以外は失敗者だ」という目の前の道を手放して、その「失敗者になる」側の価値観を見てみましょう、ということです。
例えば親子関係で言うと、「許し合わなきゃいけない」と思い込んでいると、「親と子が別れて暮らすのは、人生の失敗者がすることだ」と感じるでしょう。
会社で言うと、「サラリーマンをやめて独立や起業をするのは、人生の敗北者がすることだ」と感じるかもしれません。
別の道でも、幸せになれる
でも実際は、全然そんなことはありませんよね。
別に親子が離れて暮らしても幸せを作る道はあるし、独立や起業をしても、幸せになれる道はあると。
それと同じで、「こういう親子一緒にいる家庭環境を作らなければ、幸せになれない。それ以外は人生の敗北者がすることだ」というのは、ただの思い込みだということです。
その「幸せな家庭像」というのは、とても限られた「幸せ」のように感じるんですよ。
例えば古い時代の支配者階級とか、富豪では、「乳母(うば)」と言って、親が子を別の人に育ててもらうのが普通にありました。
そういう環境では、「親子一緒に暮らすのが幸せ」というのは、全然常識ではないわけです。
「親は自分の責務を果たして、子育ては専門家に任せるのが、一番素晴らしい」という価値観もあるわけです。
幸せな親子の例
他にも、「親子がいつも一緒にいなきゃ、子は不幸になる」なんてのも、まったくの幻想だと分かります。
例えば元野球選手の石井琢朗氏がいたんですが、彼は年中遠征に出ていたので、家に全然いられなかったんですよ。
で、たまに家に帰ると、もう妻も子供も大歓迎してくれると。
だけど、数日でも一緒にいると、子は父親が遠征に出ていることに慣れているので、「パパ、まだ家にいるの?」とか言い出したりして(笑
それでも子は親を尊敬しているし、仲がいい家族だったわけです。
つまりは、「親子がいつも一緒にいなきゃ、子は不幸になる」ということなんて、まったくないと。
もっと他の例で言うと、例えばアメリカでは、じゃんじゃん離婚をする環境じゃないですか。
なら、そういう価値観の社会に触れれば、「離婚? そんなの当然じゃない。そこからでも幸せになれるよ」という道があると分かります。
シングルマザーで心からつながっている親子は、いくらでもいますからね。
子にとっては何が幸せなのか
これはある意味、「幸せって何?」という部分の哲学だろうと思います。
実際に、質問者さんは機能不全家族で育ったので分かるかと思いますが、「親がそろっていて、親と一緒にいれば、子が幸せになる」ということを意味するわけではありませんよね。
むしろ、それが苦しみを生み出す要因だったことも多かったんじゃないかと思います。
私の中では、子供にとって大切なのは、「守られていて、安心できる環境」じゃないかな、と思います。
逆にそれがないと、どんなに「一緒にいる形を整えよう」としても、苦しくなるように感じます。
特に親同士が対立していて、緊張感があるような環境では、そういう「守られていて、安心できる感覚」は希薄になるように感じます。
何が大切なのか
つまりは、子供にとって何が大切なのか、本質を見てみましょうよ、ということです。
「夫婦が一緒にいること」が大切なのか。
それとも、「守られていて、安心できる環境」が大切なのか。
機能不全家族というのは、その部分の根本的誤解があるから、機能不全に陥ってしまっているように思います。
機能不全家族では、「守られていて、安心できる環境」よりも、「周囲の目を気にした、形ばかりの家族形態」を保とうとしているように感じます。
そうではなくて、「守られていて、安心できる環境があればいい」という本質が分かると、だいぶ手段や可能性が広がるんじゃないかと思います。
両親が距離を取っていても、「守られていて、安心できる環境」は作れる、ということですね。
まとめ
そういう風に、「理想と茨の道」から目を外して見ると、新たな可能性が見えるように感じます。
「理想に近づけたいのに、理想に近づけようとすると、引き裂かれるような痛みを得る」というのは、手段の狭さから生まれます。
茨(いばら)の道しか目に入っていない状態で、「そこを進まなきゃ、目的地(心地よく生きられる状態)にたどり着けない」と思い込んでいるわけですね。
でも、そこから少し目を外してみましょうよ、ということです。
すると、「許し合わなくても、家族一緒にいなくても、幸せになれる道はある」と分かって、新たな可能性が見えるかもしれません。
ということで今日は、「理想と、それに続く茨の道」から目を外して見ると、可能性が見える、というお話でした。
今日はここまで~。