今日も人間心理で、共感性についてのお話です。

「幼い頃に搾取された高共感な人」ほど、好成績コンプレックスを持ちやすい、というお話です。

 

好成績なのにコンプレックスになる不思議

私は人間心理の構造を考えるのが好きなんですが、最近感じることがあるんですよ。

それが、高共感な人ほど「優等生を目指して、挫折して、その時に作った好成績がコンプレックスになる」というのが多いことですね。

いわゆる、「好成績コンプレックス」という奴です。

 

例えば「頑張って優れた大学に入ったけど、後に高学歴なのがコンプレックスなった」とか。

「幼い頃からの習い事を頑張って、受賞歴もあるけど、後にその受賞歴を隠したくなった」とか。

 

本来なら、優れた評価って誇れるものじゃないですか。

たとえ今の職業と関係なかったとしても、「こういうスキルもある」とか、「こういう別の側面がある」というのは、人間としての幅が出て魅力的になるものです。

だけど、本人からすると「好成績を取ったことが恥ずかしい。知られたくない」になるんですよね。

特に、今の業種で成果が出せていない状況ほど、過去の好成績がコンプレックスになりやすいように思います。

 

新たなジャンルに挑戦した時、過去の好成績が重荷になる

これは新たなジャンルに挑戦した時ほど、「過去の好成績」が重荷になってしまうように思います。

そして新たなジャンルで成績が出せないと、過去の自分と比べられてしまったり、時に周囲から見下されたり、バカにされます。

だから「そんな過去なら、ない方がよかった」と感じてしまうんじゃないかなと。

 

例えば過去にいい大学に入ったのに、新たに農業を始めた人がいたとしましょうか。

すると、農業で成果が出ない状態であるほど、周囲から「いい大学に入ったのに、野菜作りもできないのか」とバカにされる恐れがあるものです。

 

他の例だと、過去に習い事やアートで受賞したけど、まったく違う機械工とか、パン作りの仕事に就いたとしましょう。

すると、今の仕事で成果が出ない時ほど、「あっちでは受賞したのに、こっちでは無能じゃないか」と見下される恐れがあります。

 

特に学歴などの「多くの人が欲する、競争的な分野」で成果を出していると、普通の人ほどそれをねたむものです。

だから、ねたみが嘲笑に転化しやすく、過去の好成績を出しにくくなるように思います。

 

好成績コンプレックスが生まれる理由

その背景には、「合わないことを頑張ってしまった」ことがあるように思います。

自分に合わないことなのに、頑張ってしまい、「間違って」合わないことで成果を出してしまったと。

その後、自分に合う方向性に移行した時に、過去の好成績が重荷になってしまうわけです。

 

そしてさらにその背後には、「親からの搾取」と「高共感」という2つの要因があるように思います。

親から「お前には価値がない。これぐらいのこともできないのか」と搾取されていた場合、子は強烈に「自分の価値を証明したい」と願うようになります。

「親が評価することを実現して、自分の価値を証明することで、自分を正当に扱って欲しい。愛して欲しい。認めて欲しい」と願うわけですね。

 

すると、そういう搾取された子が高共感であるほど、そして幼い頃ほど、どうしても「学校の勉強」とか「習い事」で頑張りがちになってしまいます。

で、頑張ってしまうことで、「間違って」成果が出てしまうわけです。

 

自分に合う業種に向かう時、過去が重荷になる

で、その勉強や習い事が、自分に合うのであれば、いいんですけどね。

だけど、後に「この勉強や習い事は、自分には合わない」と分かった場合、軌道修正したくなるわけです。

そして、より自分に合う業種で、心地よく生きようとすると。

 

でも、すぐにそういう「自分に合う業種」で成果が出るわけでもありません

すると、そこで「過去の好成績がコンプレックスになる」、「過去の好成績を、周囲に知られたくない」という現象が起きるわけですね。

 

過去の罪は、背負って歩けばいい

じゃあこういう「好成績コンプレックス」にはどうすればいいのかというと、これはもう「仕方ない」と受け入れるのがいいかと思います。

それは、「搾取を受けていて、自分に合わない方向性で頑張ってしまった」という因果応報です。

親から搾取されて、正常な感覚を失っていて、それで犯してしまった、自分ではどんなにあがいても避けられなかった罪だとも言えます。

 

だから、その「過去に踏み誤った罪」は、自分で背負い、後始末をすればいいと。

周囲から「あれはできたのに、これはできないのか」と見下されるのは、「自分の境遇では、避けられなかったことだ」と受け入れることです。

 

だいたい私たちは、そういう環境の中で、今まで必死に生きてきたわけです。

笑いたい人には笑わせておけばいいし、見下したい人には見下させておけばいいんですよ。

周囲に見下されたからといって、自分が「今まで必死に生きてきた自分」を否定する必要はありません。

「自分は自分なりに、今まで必死に生きてきた」と胸を張ればいいと。

 

ならば、過去を受け入れつつ、今から自分に合うものを選んでゆけます。

そして、自分に合う業種であれば、時間をかければ少しずつ成果は出てきます。

合わない場合は軌道修正をしてゆくことで、どちらにしても人生でもがいていれば、少しずつ未来はよくなっていきます。

 

自分が輝けるようになった時、罪は償われる

で、「自分に合う場」で輝けるようになった時、その「好成績コンプレックス」という荷物を下ろせます

周囲から受け入れられている実感もあるので、「いやぁ、実はずっと、こういうコンプレックスを持っていたんだよ」と笑って話せるようになります。

つまり、自分が輝けるようになって、人に喜んでもらえるようになった時に、ようやくその「過去に踏み誤った罪」が償われて、消え去るわけですね。

 

実際に私だって、そういう好成績コンプレックスを持ってましたからね。

私は一流大学を出ているんですが、ゲーム制作業界に入ってから、強烈にその高学歴がコンプレックスでしたから。

「勉強はできたのに、制作では売れないのか」みたいに、自分の中で自分を見下す声が聞こえてしまうと。

その過去は成功体験ではあるんですが、同時に「合わないもので、頑張って成功してしまった」という呪いでもあるわけです。

 

で、独立してもずっと抱えていて、ブログと本を書き始めてから、ようやく少しずつ受け入れられたように思います。

ブログや本というよりも、「生き方を語る」とか「目からウロコを楽しむ」ということを伝えるようになってから、ですかね。

そういうのと出会ってから、私は生き生きと語れるようになったし、喜んで話を聞いてくれる人たちも出てきて。

すると、いつの間にかその重荷が消えていた、という実感です。

 

まとめ

なので、過去の好成績コンプレックスを持っていたとしても、それは「過去に道を踏み誤った報いだ」とするのもいいかと思います。

その報いは避けられないものだったし、その罪は背負って行けばいいと。

「自分の境遇では、どうあがいても避けられなかったことだ」、「当時は分からないなりに、それでも自分は自分なりに生きようとした」と分かれば、素直に周囲から見下されることを受け入れられます。

 

で、自分が輝けるようになった時、その重荷は消えます。

だから「それまでの一時的な荷物だ」と思えれば、だいぶ楽になれるんじゃないかと思います。

 

ということで今日は、「幼い頃に搾取された高共感な人」ほど、好成績コンプレックスを持ちやすい、というお話でした。

今日はここまで~。

この記事をシェア:
Share