今日は、生き方について、つらつらと雑記として書いてみましょう。

「思考の一線」を越えられると、自然な自信を得られる、というお話です。

 

自信を失っている人

SNSで、こういう自信を失っている状態の人を見かけたんですよ。

例えば「自分はこういう仕事しかできないから」とか、「こんな自分なら、何をしてもダメだ」みたいに言って、元気を失っているわけです。

いやまぁ、「見かけた」という頻度ではなく、結構いるんですが(笑

 

そんな風に「自分に対して自信がなくなる」ってこと、人によってはあると思います。

そういう時って、「みんなすごいなぁ」とか思うものです。

例えば私が自信を失った時とかは、町を歩いていて車や家々を見ても、「みんな車とか家みたいな高額なものを持っていて、すごいなぁ。それを持たない私は、ダメな人間失格者だ」みたいに思ってましたから。

 

「自信を失う」という現象には意味がある

とはいえ、「自信を失う」という現象自体は、私の中では意味があることのように思います。

というのも、自分に合わない分野ほど、自信を失う方が効率的だからですね。

 

例えば何かを目指して失敗続きの場合、それは「自分の持つ方法論や性質が、現実に合わない」ということです。

ならば自信を失うことで、一度行動をストップさせて、これ以上のダメージを減らせます。

同時に、他者の方法論を優先して導入するなり、それでもダメなら生きる場や方向性を変えることで、対処できるわけです。

 

だから、「自信は多くあるほどいい」というのは、自然な観点から見るとおかしいと分かります。

実際に、失敗続きで自分の方法論が現実にまったく合っていないのに、何も学ばずに「俺はできる!」とか言っている人は、ダメージを広げるだけでしょ。

「自信がない時ほどポジティブに!」というのがまさにそれで、そういう人ほど何も学ばずにダメージを受け続けているように感じます。

 

「失敗してはいけない」という思考の一線

おそらくその背後には、「失敗してはいけないもの」、「失敗すると、自分の存在価値が落ちる」という思い込みがあるように思います。

幼い頃から、そういう「思考の一線」を作ることで、安全を保ってきたわけです。

 

で、本来ならば、14歳ぐらいからの反抗期で、自然とそういう「思考の一線」をはみ出るんですよ。

それによって、「失敗しても、死にはしない」と経験で分かって、そこから数年かけて、自分の性質に合う新たな「思考の一線」に作り替えます。

 

だけど現代では、それを手放せずに、持ち続けてしまうと。

だから思考の一線を作り替えられずに、自分に合わない生き方を続けてしまうように感じます。

 

なら、どうすればそういう「思考の一線」を作り替えられるのか、ということです。

で、その答えも簡単で、「思考の一線を出てみればいい」かなと思います(笑

すると、「自信を失ってもいい」と分かって、失敗と自分の価値を結びつけないという、ある意味「自然な自信」を得られるかと思います。

 

思考の一線を越えてみる

そのために、「自分はやってはいけないと思っている。だけど世の中ではやっている人も多い。禁じる法律もない。そしてこれをやっても死にはしない」という一線を越えてみるといいでしょう。

ある意味、「自分の中にある道徳」に反することをする、ということですね。

嘘をついて欠席をしたり、ムダに散財したり、未来を考えずに行動したり、アホなことをすると。

まさに反抗期の再現でしょ。

 

特に高校生男子なんて、「アホなことをする奴」の代名詞みたいなものですが、それには意味があるんだと(笑

実際にイメージしてみると分かるでしょうが、反抗期でアホなことができるほど、自分の中で思考体系が調整できていると分かります。

だから、その後に自分に合う生き方を模索できるんじゃないかと思います。

 

そして当然ですが、狩猟採集時代にはSNSなんてなかったし、人口も今の1/1000ぐらいしかいなくて、土地も余っていたわけです。

なので、少々アホなことをしても、拡散しなくて大丈夫だったと(笑

 

最初から「進みたい方向」を試すのでよさそう

私の中では、もう最初から「周囲から反対されるだろうけど、進みたい方向を試してみる」というのでもいいように思います。

だいたい「周囲から反対されそう」という時点で、立派な反抗ですからね。

 

そしてその場合、むしろ「私はアホなことをしている」と自覚を持っている方が、安全に進めるように感じます。

というのも、変に気負うと、引き返せなくなります。

大きなクラッシュをするのは、我慢に我慢を重ねてしまう人なんですよ。

一方で反抗期では、中学生レベルのような、小さくアホなことからするから、安全に乗り越えられるわけです。

 

例えば「漫画を描いてもどうしようもない」と思っていた場合、ノートの余白にでも描いてみるわけです。

実際にそれって、アホだし何の役にも立ちませんよね。

ただ、「描いてみたいから、ノートの余白に描く」だけです。

 

だけど、それって実は大きなことだと分かります。

「なんで、意味がないことをしちゃいけないの?」

これが、重要なことじゃないかなと。

 

「思考の一線」とは、案外そういう身近なところにあるようにも感じます。

そして反抗期はそこに疑問を持たないから、軽く乗り越えられるように思います。

 

まとめ

そうやって思考の一線を出てみることで、見える世界もあるように思います。

私たちの中学~高校生時代は、そういうのが自然にできる時期かなと。

 

これは反抗期と同じなので、「一線を越えても生きられる」ということを確認するためのものです。

だから「まーたアホなことを始めた」ぐらいに自嘲しながら進むと、安全にできるし、意外と途中から本気になれるものが見つかるんですよね。

 

すると、いつの間にか自分の中にある「思考の一線」が作り替えられているかと思います。

つまり、「失敗していい。自信を失ってもいい」と許せているし、同時に「失敗と、自分の生命価値とは別々のものだ」ということが分かるかなと。

「意味のないアホなこと」には、そういう力があるように思います。

 

これが分かると、ポジティブで取り繕う必要もなくなって、「自然な自信」が得られるかもしれません。

 

ということで今日は、「思考の一線」を越えられると、自然な自信を得られる、というお話でした。

今日はここまで~。

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