今日は、価値観についてつらつらと書いてみましょう。

伝統からは見下されてバカにされる、そんな工夫が好き、という日記です。

 

サングリアがおいしかった

ここんとこ、「味わったことがないものを食べてみよう」ということで、いろんなものを味わってます。

で、先日初めてサングリアを飲んでみたんですよ。

サングリアというのは、ワインにフルーツ果汁を加えた、軽めのアルコール飲料です。

スペインとかフランス、ヨーロッパでよく飲まれているらしいので、以前から気になっていたんですよね。

 

で、味わってみると、確かにワインのジュース割りで、おいしくて。

 

メルシャンはバカにされやすい

それでメーカーを見てみると、メルシャンだったんですよ。

今までの私の経験からすると、メルシャンみたいな「安いお酒をメインに造る会社」って、バカにされることが多いように感じます。

というのも、多くの人が「高いお酒に価値がある」、「伝統的な製法こそ価値がある」と思っているからですね。

 

だから、ある意味「安いものメイン」、「伝統とは違う、独自製法」、「最近できた産地」というだけで、見下されやすいわけですが。

実際にワインでも、「フランス産やイタリア産が一番だ」みたいに言う人が多いでしょ。

「チリ産やペルー産、オーストラリア産のような、最近できたワイン産地なんて、安物で外道だ」みたいな。

 

まぁそういうのも一つの価値観なんでしょうけど、私はそういう「伝統とは違う独自製法で、より安く、合理的においしくしたもの」って好きなんですよ。

だって、そこには工夫があるからですね。

 

「合理性のある価値」の形

例えばメルシャンだって、ブドウ果汁だけを安価で仕入れてきて、日本人に合うように調整しつつ、安くそれなりにおいしいワインを作ってるわけじゃないですか。

ある意味、「誰もが見下して見捨てるような、無価値なブドウ果汁」を集めてきて、「それなりに安くておいしいワイン」を作っていると。

これは、「割高の強者にもっとすり寄る」のではなく、「落ちて見捨てられた、割安の弱者側を助ける」とも言えます。

 

それに、「開けてすぐに飲める」という合理性もいいですよね。

ワインに限らず、高価なお酒って、開けてすぐに飲んでもおいしくないことが多くて。

ああいうのは、少し空気に触れさせないとおいしくならないので、面倒な手間がかかるわけです。

「ワインのマナーとルールを守れ」とか言われるだけで、もううんざりする人も多いでしょ(笑

 

そんな中、メルシャンみたいな「開けてすぐ飲めて、安価で、それなりにおいしい」というのは、十分に価値だと思うんですよ。

私は伝統とか形式とかが苦手なので、そういう「より合理性のある、価値ある形」が好きだったりします。

 

ひき肉の価値

他にも私の場合、例えばひき肉とかも好きなんですよ。

普通は、「サーロインやヒレ肉がおいしくて、価値がある」じゃないですか。

でも、ひき肉って、固くて食べられないような「誰もが見下して捨てるような、無価値な部分のお肉」を集めてきて、細かくすることで柔らかく、食べやすくしているわけです。

 

その上、タマネギとか調味料を混ぜてこねることで、肉だけではできないおいしさを加えることもできて。

これも、「無価値なものを、工夫で価値を加えて、安価でそれなりにおいしくしたもの」ですよね。

 

「価値がないものを価値にする」スタイル

私の中では、そういう「見捨てられて、価値が落ちたものの救済」とか、「無価値なものを価値にする」というスタイルが好きなんですよ。

これは食べ物だけでなく、投資でも同じスタイルです。

 

そもそも、最初から高価なものは、おいしくて当たり前ですからね。

それを奪い合うように争って得ても、「俺はこれを食べられる身分だ」とステータスにはなるかもしれませんが、あまり意味はないように思います。

 

それよりも、無価値で入手しやすい物に目を向けて、それをどうおいしくするのかを考えるのが好きだったりもします。

言うなればこれは、東京人よりも、大阪人の感覚に近いかもしれません。

例えば東京の人は、「これ高かったんだ。いいだろ?」と、値段の高さを自慢するものです。

でも大阪の人って、「これ安かってん。ええやろ?」と、「値段の安さに対する品質の良さ」を自慢するんですよ。

 

それは、大阪は商売の街なので、「いいものを安く入手できるには、見る目が重要」だから、安さを誇ると。

そして、あまり身の丈を越えずに、節度を持って「安くていいものを身につけていればいい」という合理性があると。

私はそういうスタイルが好きだったりします。

 

「自然に生きる」楽しみ

そして「自然に生きる」っていうのも、私の中ではそういう心地よさがあるように思います。

例えば山からは、初夏には野生のラズベリーとか、秋には野生の栗とか柿を手に入れたり。

海からは、釣り糸を垂らして魚を得たり。

そういう「自然の中にたくさんあって、誰もが採ろうとしないけど、だけどおいしく味わえる豊かさ」って、結構あるように思います。

 

そして私は、そういう「膨大にある豊かさ」を自然から分けてもらって、自分なりに味わうのが好きだったりします。

例えば私は海が好きですが、「海沿いを歩く」とか「誰もいない砂浜に座って、波の音を聴きつつ、海を眺める」なんて、私の中ではかなりの高価値だったりします。

「小高い山に登って、美しい瀬戸内の景色を眺める」、「自然が多くて、毎日海や山に触れられて、ゴミゴミしていない環境で、ゆったりマイペースに生きる」とかもいいですよね。

とてもありふれた、安価に手に入る豊かさです。

 

多くの人が、「満員電車」に価値を置いている

でも多くの人が、満員電車が好きだったり、ごみごみした都会だったり、目覚ましで無理矢理目を覚ますような毎朝が好きなわけです。

いやまぁ、「好きな人なんていないよ!」と言われそうですが、多くの人がそこに価値を置いているのが事実のように思います。

 

だって、価値があると思っているから、それを使っているんですから。

「早く移動できて、時間を節約できる電車や車に価値がある」、「都会の一等地に価値がある」、「目覚ましは、朝早く目が覚めるので価値がある」

価値の優先度をそういうスタイルに置いていると、そういう毎日になって当然のように思います。

 

根本的な価値観を疑う

つまり、根本的な価値観の違いですよね。

「早く移動して、時間を節約することに価値がある」とするか、「ゆっくり生きて、マイペースを保つことに価値がある」とするか。

「都会の中心で成功することに価値がある」とするか、「自然から豊かさを分けてもらうことに価値がある」とするか。

「目覚ましで目覚めて、早朝から出勤してお金を稼ぐことに価値がある」とするか、「ゆったり目覚めて、身の丈に合わせることに価値がある」とするか。

 

そういう根本的な価値観を疑えると、価値に関する見方が変わるかもしれません。

「車や電車って、価値のように思えていたけど、ひょっとすると自分には、そんなものない方が豊かさなのかもしれない」

「スマホで常時SNSを見られることは価値のように思えていたけど、実はお金を使って資源を浪費していたのかもしれない」

「『今の周囲にいる人たち』とうまくやっていくことが価値のように思えていたけど、実はそうではないのかもしれない」

 

いろいろ発見があるかもしれません。

 

まとめ

そうやって根本的な部分に目を向けるほど、「ああ、これは必要なかった」、「こういう自然で安価なもので、代用できる」と、無駄なものを手放せるかなと。

すると、さしてコストをかけずに、欲しいものを得られたりするんですよ。

それが、私の中での「工夫」かなと思ったりもします。

そしてそういう工夫を重ねていくと、私の中では「自然な生き方」になった、ということですね。

 

で、その象徴が、「ワインはメルシャンで十分」ですね。

私の場合、「静かな田舎で、夕暮れ時にゆったり味わう、おいしいお酒」が好きなわけです。

それを実現するには、高価なフランス産でなくとも、メルシャンでも十分なようにも思ったりもします。

いやまぁ、もちろんフランス産も味わうこともあるでしょうが、さしてこだわらないと。

 

この辺の余裕を持てると、「自分が本当に望む生き方は、お金を出すほど得られるのではなく、工夫をするほど得られるのかも」と分かって、実現しやすくなるかもしれません。

 

ということで今日は、伝統からは見下されてバカにされる、そんな工夫が好き、ということをつらつらと書いてみました。

今日はここまで~。

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