ここんとこ肝臓をやられた病床日記が続いていますが、今日もその引き続きで、精神的な日記です。
「生きる意味」のために生きるのをやめてみよう、と思ったお話です。
健康問題を抱えると、いろいろ考えてしまう
いやもう、ここんとこ病床日記が続いていますが、この辺はずっと語りたくてしょうがなかったことなんですよ!(笑
というか、健康に問題を抱えて動けなくなると、やはりいろいろ考えてしまうわけです。
実際、長期的に体調問題を抱えると、人生について考えちゃうものでしょ。
健康が続く場合、つい「今までも持っていたから、未来も持ち続ける」、「少々浪費しても大丈夫」と思いがちで。
でも、一度健康を失うことで、「いつ人生とか、身体の調子が失われるか分からない」、「いつかはなくなりうるものだ」と実感できて。
すると、「もっと大切に使って、あるうちに思う存分使おう」とか発想できて、余計なものを手放せるように思います。
今回の肝臓問題は、その辺に向き合ういい機会だったように思います。
というか、ベッドから動けないので、考える時間だけは山ほどありましたからね(笑
「生きる意味」のために生きるのを、やめてみよう
で、今回の肝臓問題を通して思ったのが、「生きる意味」のために生きるのを、やめてみよう、ということです。
今までの私は、「人生を意味あるものにしたい」と思っていたんですよ。
何というか、無意味なことをして、人生を費やしたくないじゃないですか。
意味あることをして、意味を実感して、世の中に残る価値を作りつつ、納得して生きていたいと。
それはそれでいい生き方だと思うんですが、でも今回、ふと思ったんですよ。
「他者に対する価値は、もう十分作ったよな」みたいな(笑
むしろ、なんか私の中にある「生きる意味」って、「価値を証明したい」、「自分は無価値な存在かもしれない」という根底部分の裏返しだったようにも感じて。
すなわち、今までは意味あることに対して強烈な欲求を覚えて、無我夢中で追いかけていたように感じます。
欲求が満たされてくると、価値作りはどうでもよくなる
でも、自分の欲求が満たされてくると、その辺はどうでもよくなってくるんですよね。
言うなれば、強烈にお腹がすいている時に、おにぎりを得ようとするようなものです。
そういう「強烈に飢えているのに、得られない」という状況では、もう少し得られただけで「世の中に、こんなにおいしいものがあったなんて!」と感激して、そのおにぎりを得るために全身全霊になれるものです。
同時に、「人生で心から欲しかったものが得られて、満たされる」と感じて、嬉しくなるし、楽しくなると。
でも実際は、その「全身全霊で、楽しく、満たされる」というのは、「欠乏」の裏返しなんですよね。
もしお腹がいっぱいになって、栄養も満たされると、心地よくなって「おにぎりに全身全霊をつぎ込んで、楽しみを得る」というのは、難しくなると分かります。
すなわち、人は満たされてくると、「エネルギー全開」というよりも、「心地よくマイペース」になるんだと。
自分を癒やしてくると、「癒やすための行動」は必要なくなる
他の例で言うと、物語を好きで書いている人なら分かると思うんですが、最初って「自分の心情を主人公に投影して、乗り越える」という形で書きますよね。
そしてそれは、主人公に強烈な過去を設定しがちで、シリアスになりやすくて、読み手は疲れやすかったりするんですが。
でも、書き手はそれがすっごい興奮するし、エネルギーが出るわけです。
というのも、そのストーリー作りは「自分を癒やす行動」だからですね。
自分の劣等感や、過去の苦しみに、物語や主人公を通してけりをつけることで、自分が持つ過去の傷を癒やしているわけです。
だから、強烈なモチベーションが出るし、書くことで自分自身が救われると。
でも、そういう「自分を癒やす物語」で作って自分が癒やされてくると、書くモチベーションがなくなってくるんですよ。
それで、「書く気力がなくなった」とか、「書けなくなってきた」、「楽しくなくなってきた」とか感じるんですが。
癒やされたら、別のモードに切り替えればいい
ただ、私はそれでいいように感じます。
というのも、それが「お腹がいっぱいになると、おにぎりに全身全霊をつぎ込んで、楽しみを得るのは難しくなる」というのと同じ原理だからですね。
言い換えると、「楽しみのモードを切り替えましょうよ」、ということです。
言うなれば、「今までは、ポーカーで楽しんでいたのを、将棋で楽しむようにしようよ」みたいな、モードを切り替える発想です。
今までは、そういう「欠落を満たす、強烈な欲求や楽しみ」が楽しみのすべてでした。
そして、強烈だからこそ、「もっと味わいたい」と感じたくなるんですが。
ただ、それは不健康ならではの、欠乏感があるからこそなんですよね。
お腹がいっぱいで満たされたら、「満たされた状態で、穏やかさをメインにして、心地よく毎日を過ごして行こうよ」でいいように感じます。
そういう、「強烈な欲望を満たす楽しさ」から、「穏やかなテンポを味わおうよ」という、モードの切り替えです。
もしこれが分からないと、例えばアーティストで麻薬に手を出す人が多いように、「強烈な刺激」を求め続けてしまうように感じます。
「自分にとっての豊かさ」をメインに作る
とはいえ、私は暇な日々よりも、毎日を忙しく過ごしたいタイプなんですよ。
なので、「もっと身近なもので、自分にとっての豊かさをメインにして、自分なりに作ってゆこう」というイメージです。
食べることとか、寝ること、住むこと、毎日触れるもの、そういうものにも、もう少し丁寧にしつつ、その部分を忙しくして生きよう、みたいな。
やっぱり、今までの私の生き方は、すべてが全身全霊で、走り続けてばかりでした。
それを、もう少しペースを落として、他の人が作った作品を楽しんだり、他の人の工夫も味わいつつ、安らぎを多めに生きてみようかと思います。
簡単に言うと、「もっと他のことも楽しんでみよう」ってことですね。
まとめ
そういうこともあって、私自身は、今回の肝臓問題を通して、穏やかさを重視して生きてみようかと思ってます。
「もっとテンポや勢いを落としてみよう。全身全霊ではなく、まったり風味で生きてみるのでいいやん」みたいな。
いやまぁ、やることは今までと同じで、境地開拓的なことなんでしょうけど(笑
それでも、少し旅を楽しんだり、買い食いを楽しんだり、釣りや野菜作りを楽しんだり、今までやりたかったけど「意味」のために犠牲にしてきたことが、多くあるんですよ。
それを少し、重点的にやってみようかと思ってます。
いや、「重点的に」とかいうと今まで通りになっちゃうので、「まったりと、気楽に」ですね(笑
ということで今日は、「生きる意味」のために生きるのをやめてみよう、と思ったお話でした。
今日はここまで~。