今日は、生き方のお話です。

久しぶりにあおり系タイトルを使ってますが、「自分の標準は、世界標準とは違う」と認識する方が、より気楽に生きられそう、というお話です。

 

「今の若者世代は、勤労意欲が少ない!」という言葉

とあるところで、こういう記事を見かけたんですよ。

それが、「今の若者世代は、勤労意欲が少ない!」というものですね。

いやまぁ、こういうのは今に始まったことではなくて、10年前どころか、50年前、100年前も言われていたことのように感じますが(笑

 

ただ、こういう言葉を見ると、客観的に見られる人ほどツッコミを入れたくなるわけです。

「そうは言うけど、あんたらは『自分の世代が狂っている』という可能性を考えないのか」みたいな。

 

実のところ、若い人の方が、環境への適応力は高いものです。

そして若い世代は、大人の世代を見て、良くも悪くも「こういう人になりたい。こういう人になっちゃいけない」と学んで、自分に取り込んでゆきます

 

なら、若い人たちの「もっとゆったり働くぐらいがいい」というのは、そのフィードバックに過ぎないんですよね。

つまり、「お前らのような人間にはなりたくないんだよ!」という意思表明に過ぎないと。

 

実際に、「今時の若者は」とか言う大人にはなりたくないでしょ。

自分のことしか考えられないし、それを言われた人がどう感じるのかを理解できないし、そもそも「自分も過去に若者だった」ということすら忘れているんですから。

逆に、批判ではなく、「希望や元気、可能性を与えられる人」が、私の中では「そういう人になりたい」と感じる人間像だったりします。

 

「正しい使い方をする人は、たった2割」という現実認識

まぁそんな風に、「今時の若者は!」というのは、言うなれば「自分の常識が、他の世界にとっても当たり前だと思い込んでしまう」ということですよね。

そしてこういう「自分の常識が、世界にとっても当たり前」という錯覚現象は、他にもあったりします。

 

例えば以前、こういうニュース記事がありました。

それは、慣用句の意味についてだったんですが、「この慣用句は、正しい意味で使えている人はたった2割しかいない。8割もの人が、間違った使い方をしている」という内容でした。

 

こういうのも、私は盛大に頭を抱えて「いや、違うだろう」とツッコミを入れたくなるんですよ。

だって、コミュニケーションにおいて「8割の人がその意味で使う」なら、そっちが標準でしょ(笑

 

そもそも言葉とは、「情報を相手に伝える手段」でしかありません。

ならば、その目的を考えると、「相手により正確に伝わる言葉が『正しい』言葉」だと言えます。

 

「自分の常識」への感覚を考える

それなのに、そのニュース記事では「この使い方こそが、正しさだ!」と言っているんですから。

それぐらい、「自分が正しい」と思い込んでいるわけです。

 

「そりゃもう、戦争だって起きるわ」って感じるでしょ(笑

そこまで自分のことしか考えられずに、「相手が間違っていて、自分が正しい」と思い込んでいるんですから。

もはや、笑うしかないようにも感じます。

 

でも、こういう「自分の常識が、世界にとっても当たり前だと思い込んでしまう」という現象は、私たちでもよくあるように思います。

そして個性がある人ほど、「自分の標準は、世界標準とは違う」と認識する方が、より気楽に生きられるようにも思います。

 

「共感性が高い人」の現実感覚

例えばこのブログを読んでいる人では、共感性が高い人が多いかと思います。

すると、「周囲の中で、自分が最も共感性が高い」ということがよくあるかと思います。

 

これは、言うなれば「その環境では、自分が最も周囲を気遣える人である」と言えるでしょう。

でもそれって、言い換えると「その環境では、自分以外は全員、自分よりも思いやりを持たずに、独善的である」と言えます。

 

ならそこで、自分の感覚を社会の標準にしてしまうと、だいぶ苦しみそうだと分かります。

だって、「自分ぐらいの思いやりを持って普通」とすると、全員が不合格になっちゃうんですから(笑

その場にいる全員が、自分のことしか考えないし、誰も思いやらないし、独善的で、裏切って奪うような人たちばかりになってしまうと。

 

そういう感覚って、やはり苦しいですよね。

 

「工夫ができる人」の現実感覚

同じように、このブログを読んでいる人には、工夫ができるし、本質を見抜けるタイプも多いかと思います。

すると、これも同様に「これぐらいの工夫ができて普通。これぐらいの原理やロジックを理解できて当然」とすると、やはり裏切られるように思います。

周囲はそんなに頭はよくないし、原理も理解できないし、工夫もできないんですから!(笑

 

たまに金融で本質を見抜ける人が、よくキレていることがあるんですよ。

それは、本質を語ると、「普通の(原理を理解できない)人たち」から、見当違いな論理で反論されることが多いからですね。

特に今のような、「お金をばらまけ。俺に届くようにばらまけ! それが正義だ!」みたいな、多くの人が正気を失った環境では、批判にさらされやすいものです。

 

ならなぜそれでストレスを抱えるのかというと、やはりそれも「周囲の人たちは、自分ほどには本質を見抜けない。周囲は見抜く目を持たない」という事実を、理解できていないからのように感じます。

群衆は狂気にさらされることもあるし、バッファローの群れのように、多くの人が自分から谷底に向かって突っ走ることもあるものです。

 

なら、「本質を見抜けない人にキレる」なんて、意味がないと分かります。

むしろ、「理解できない人たちもいる」という事実を前提として戦略を考える方が、現実的のように思ったりもします。

 

まとめ

そんな風に、個性がある人ほど「自分の標準は、世界標準とは違う」と認識する方が、より気楽に生きられるようにも思います。

 

特に高共感な人ほど、「世界はみんな、独善的で、優しくない」と恨みやすいものです。

そして工夫ができる人ほど、「世界はみんな、筋の通らないことを正当化している」と恨みやすいものです。

ならば「高共感で、なおかつ工夫ができるタイプ」は、その両方を抱えやすいわけで(笑

 

その上、場合によってはこじれを持つことで、それが自分に向けられてしまうこともあるでしょう。

つまり、高共感な人ほど「自分はどうして、人にもっと優しくできないんだ」と錯覚させられることもあります。

そして工夫できる人ほど、「自分はどうして、もっと現状打破できないんだ」と錯覚させられることもあります。

で、「高共感で、なおかつ工夫ができるタイプ」は、そのダブルパンチを受けることもあると(笑

 

そういう風に、「自分の感覚」と「こじれ」という要素で、現実がゆがんで見えてしまうわけですね。

だから、現実認識の違いで苦しみが生まれると。

 

なのでそういう場合、「私たちが思っているよりも、この世界はもっと原始的な世界だ」と思うぐらいでいいかもしれません。

スマホやインターネットなどで高レベルに進化しているように見えても、人間の内面はとても原始的なものでしかないんだと。

 

現実を正確に認識している人ほど、「これが自然だ。これが当たり前だ」と納得できます。

そして、現実に即した対処ができて、自分や周囲を豊かにできます。

 

これが分かると、変にゆがんだストレスを抱えることもなく、心地よく生きられそうにも感じます。

 

ということで今日は、「自分の標準は、世界標準とは違う」と認識する方が、より気楽に生きられそう、というお話でした。

今日はここまで~。

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