今日は生き方のお話です。

なぜ「自分の人生や時間、作品を、安売りする必要はない」と言えるのか、というお話をしてみましょう。

 

自分を安売りする必要はない

昨日の記事で、「同意して交換が成立する時は、双方が満たされる」って触れましたよね。

互いが「自分には価値が低いけど、相手には価値があるもの」を提供し合うことで、それぞれがより高い価値を得られることになります。

 

この見方を変えると、自由市場においては、「自分の人生や時間、作品を、安売りする必要はない」と言えます。

じゃあなぜそう言えるのか、今日はそのお話です。

 

「もっと安くすべきだ!」という主張

これは、私たちがものを買う場合を想像してみれば分かるかと思います。

ある人が、同人誌即売会に出て、作品を売っていたとしましょう。

で、お客が「これは高い。もっと安くすべきだ!」と訴えたとしましょうか。

すると、私たちは「安売りしなきゃいけないじゃないだろうか」、「何事も、値段は安い方がいい」とか思ってしまうんですが。

 

でも、自由な市場ではそうはなりません。

だって、「買うか買わないかは、お客が選べる」んですから。

 

買うか買わないかは、お客が選べる

周囲を見渡すと、似たような作品がたくさんある中で、お客は自分で検討して選べるわけです。

で、価格とクオリティが不満なら、お客側が私たちの作品を買わずに、別の作品を買えばいいわけで。

 

そして、もし他では買えない場合、それは「無い物ねだり」です。

なら、無い物ねだりを聞く必要はないと分かります。

 

もちろん、「大きな市場で、他企業の参入もできないほど、一企業がすべてを独占している」という場合は、競争原理が働かないので、「同意した交換」ができません。

それは、圧倒的に企業側が強いからですね。

なので、独占禁止法みたいな法律があるんですが。

ただ、「ニッチで小さな業界で独占をする」というのは、他の大規模チームほど容易に参入できて、競争原理が働くので、「悪い独占」にはなりません。

 

「片方だけが犠牲になる」という必要はない

そういう「何を買うのか、自分で選べる」という自由を、相手に許すことですよね。

すると、私たちも自由に値段を設定して、販売できます。

 

で、「同意して交換が成立する時は、双方が満たされる」なので、それで双方が喜んでゆけばいいと。

「私たちの片方だけが犠牲になる」という必要はない、ということです。

そうすることで、相手を喜ばせつつ、自分も利益を最大にできると。

 

ビジネスでも通用する

で、そういう「何を買うのか、自分で選べる」という自由は、売買だけでなく、私たちのいろんな関係で適用できます。

これは特に、「嫌なことをやめること」で応用できるでしょう。

 

例えば私たちが嫌な仕事をしていて、「風邪を引いてるけど、無理をしてでも私が会社に行かなきゃ、会社に迷惑をかける」と思っていたとしましょうか。

でも、そこで会社側に、「人を選ぶ自由」を許すわけです。

「会社は、社員を採用したり、解雇したりして人を選ぶことは、自由にできる」

「会社は、私がいなくても動くようなシステムを、自由に作ることができる」みたいに。

 

なら、「社員が一人いなくなったら動かなくなるような会社なんて、それは社員の問題ではなく、会社側の問題だ」と分かりますよね。

すると、「法律や契約に従っている限り、それ以上を担う必要はない」と分かって、「私は風邪だから休む。会社はそれに、自由に対応や処分をすればいい」と判断できて、自由に行動できます。

つまり、相手に自由を与えると、私たちも自由を得られると。

 

親の面倒を無理に見る必要はない

別の例で言うと、私たちが「親の面倒を見なきゃ、親を幸せにしなきゃ」と思っていたとしましょうか。

でもそこで、親に「人を選ぶ自由」を許すわけです。

「親は、誰に周囲を囲まれるか、自分で選べる」

「親は、『喜んで自分を助けてくれる人』を、自分で選べる」みたいに。

 

なら、「人から好かれるかどうか、周囲から助けてもらえるかどうかは、親が自由にできる」と分かります。

誰にも好かれないような言動をしていて、実際に誰からも嫌われているのに、「子供だから親を助けなきゃいけない」なんて道理はありませんよね。

だって、それは親本人の人格とか性格、言動の問題なんですから。

 

すると、「親は自分の言動を正すことで、自由に多くの人から慕われて、助けてもらうことができる」と分かります。

なら、「私は好きにしよう。それは親の問題だ」と、相手を手放せます。

これも、相手に「面倒を見てもらう人を選べる自由」を与えたから、私たちも「誰を助けるのか、選べる自由」を得られたことになります。

 

無理に提供する必要はない

そういう風に、自由主義の市場や社会では、自分にも相手にも自由を許すことで、互いに無理をしなくてすむようになります。

他にも提供している人がいて、競争原理がある限り、「無理に自分を削って、価値を提供する必要はない」ということです。

 

それでも「お前はこうすべきだ」と言ってくる上司や親がいた場合、それは「無い物ねだり」です。

罪悪感から相手に「無い物ねだり」を実現してしまうと、それは相手にとって不幸です

だって、相手は「強く脅迫をすれば、周囲は自分に従ってくれる」と信じ込んでしまうからですね。

 

「無い物ねだりをしていた」と気づかせること

特に親子関係では、子供は幼い頃、生きる力がありません。

だから毒となる親ほど、「脅迫したり、被害者を装えば、子は従う」と信じ込んでしまうんですが。

 

でも、それは親のためにはなりません。

「自分が無い物ねだりをしていた」と、相手に気づかせることが大切です

そこから、本当の意味で、地に足をつけた生き方ができるんですから。

そしてそれは、できるだけ早めに気づかせる方がいいかと思います。

 

まとめ

なので、苦しいことを迫られた場合、そういう「相手には、選べる自由がある」と許すのもいいでしょう。

すると、「私はできません。他をどうぞ」とできて、変な依存関係を手放せるし、自分も自由に動けるかと思います。

 

つまり、自由な場であるほど、「自分の人生や時間、自分の作品を、安売りする必要はない」ということですね。

 

ということで今日は、なぜ「自分の人生や時間、作品を、安売りする必要はない」と言えるのか、というお話でした。

今日はここまで~。

この記事をシェア:
Share