今日は昨日に引き続き、心理解説です。

なぜ「常識外の人」を知ると、私たちはショックを受けるのか、というお話の、後編になります。

 

「ひどいことをする人」になぜショックを受けるのか

少しおさらいしておくと、昨日の記事で、「こんなひどい言動をする人がいるなんて、信じられない」って出来事に出会うとショックを受ける、ということを説明しましたよね。

今回の質問者さんの場合、「町中でもマスクをせずに、むしろそれで周囲に嫌がらせをして喜んでいる人たち」がいて、ショックを受けたと。

 

で、冷静に考えると、「そういう嫌がらせをする人がいるのが現実」になります。

そして、私たちは現実に即して生きることで、より柔軟に適応して生きられると分かります。

 

なのに、なぜか私たちはショックを受けて、寝込んだりしてしまうわけです。

場合によっては、「信じられない」と言って、現実に起きていることを「自分の現実」から排除することもあるでしょう。

そして、そういう「自分の世界」を守ろうとしたりしてしまうんですが。

 

じゃあなぜ私たちは、そんな風に「現実」を否定してしまうのか。

そこで今日は、そういうなぜ私たちは「現実」にショックを受けて、現実を否定してしまうのか、という心理メカニズムについてお話ししてみましょう。

 

「理想と現実がごっちゃになっている」という問題

結論から言うと、これが「理想と現実がごっちゃになっている」ということです。

私たちの中で、「こうしなきゃいけない」という理想と、「現実はこうである」という現実とが、区別できていないことによって起きます。

 

そもそも、私たちが「価値観に直面して、寝込むほどのショックを受ける時」っていうのは、「出来事そのもの」にショックを受けるわけではありません。

「その言動をすることが許されている」という、「周囲からの許しがあること」にショックを受けるわけです。

 

例えば上記の「マスクをせずに、嫌がらせをしている人たち」でも、「嫌な相手に嫌がらせをしたいと思うこと」そのものには、特にショックを受けませんよね。

だって、それは私たちの中でも、「嫌な相手には、嫌がらせをしたい」と思うことは、やはりあるからで。

それは、私たちの中で「許されていること」だから、別にショックを受けないわけです。

 

「環境からの許し」にショックを受ける

でも私たちは、「嫌がらせをしつつ堂々と生きることを、許されている」という、その「環境からの許し」があることに対して、ショックを受けるわけです。

つまり、本人の言動そのものよりも、「なぜ許されているんだ。なぜそれで日常を生きられるんだ」と、周囲から許されている状態に衝撃を受ける、ということです。

 

ここに、私たちの不平等感が刺激されてしまい、「なぜ」という思考のループに入ってしまいます

私たちは、「私たちの常識の世界」では、それを許されないわけじゃないですか。

もしそれをすると、周囲から強い制裁が下されます。

一方で、相手は「相手の常識の世界」では、それが許されています。

 

だから「なぜ」の堂々巡りになる

ただし、そんな中、私たちは「相手の常識の世界」を知りません。

すなわち、それは完全に「私たちの現状の外にある世界」だから、私たちの中には「そういうことを許された事例が一つもない」わけです。

 

だから、「なぜ」と問いかけても、現状の中からは解決策を見つけられずに、「なぜ」の堂々巡りになってしまうわけですね。

自分の中に事例が一つもないものは、いくら探しても見つからないわけです。

そして答えが見つからないから、疲れ果てるまで「なぜ」と思考のループをしてしまい、それが疲弊を引き起こします。

で、その疲弊がショックとなる、ということです。

 

「未知なる価値観」は福音

実のところ、この「未知なる価値観に触れること」は、本来なら私たちにとっては福音なんですよ。

だって、自分の思い込みから抜け出せて、世界を広げるきっかけになるんですから。

 

例えば私たちが「富士山に登ろう」として、ずーっと長い間、「どうすれば樹海を抜けられるだろうか?」と悩んでいたとしましょうか。

そんなとき、「登山道がある」と知ったら、そりゃもうショックでしょ(笑

「え? そんなのあるの!? 使っていいの!?」みたいな(笑

 

だから本来なら、「あー、世の中にはそういう道もあるんだ!」と分かって、そこで「未来が開けた! そうすればよかったんだ!」と嬉しくなるものです。

 

「幼い頃の学習」が問題を作る

だけど、なぜそれを否定してしまうのかというと、それが「理想と現実がごっちゃになっている」からです。

「私はこういう理想を実現しなければならない」という強迫観念が、別世界を否定してしまっているわけですね。

 

私たちは幼い頃から、自分本来の性質で生きられれば、最高でしょう。

でも、生まれついた環境によっては、そうできないこともあります。

「こうしなきゃ、生きていけない」と幼い頃に強く学習することで、「自分本来の性質を殺すことが、生存には欠かせないことだ」と学習します

 

だから否定してしまう

富士山の例で言うと、「樹海を抜けないと、私には価値がない」と思い込んでいるようなものです。

ひょっとすると、過去に親や周囲から脅迫をされることで、そう見せかけなければ生きていけなかったのかもしれません。

 

すると、「登山道を使うなんて、信じられない! 許せない!」と、否定してしまうわけですね。

本当は、自分も楽に富士山を登りたいのに。

 

そして現実をねじ曲げる

すると、その「幼い頃の、生き抜くためには必要だった学習」が、現実をねじ曲げます

だって、「こうしなきゃ、生きていけない」と思い込んでいるんですから。

 

結果として、その根が深いほど「例外の価値観」に目が向かなくなって、自分の中で「それが当然」となります。

だから、その例外となる「本当の現実」を知るとショックを受けるし、それを自分で自分に許せない限り、「なぜ」のループになってしまうと。

 

自分は「何を許されたいのか」

実際に、「自分は本当は、何を許されたいのか」を考えてみるといいかと思います。

「マスクをせずに、嫌がらせをしている人たち」の事例でも、本心の部分は、「あいつらを許せない」というよりも、「私も許されたい」なんじゃないかと思います。

他者を攻撃したいのではなく、「周囲を気にせずに、自分の思うようにしたい。私も自由に動きたい。それを許して欲しい」じゃないかなと。

つまり、怒りは「許されない本心」を正当化する、代償行動でしかない、ということです。

 

で、私からすると、「そのショックは、福音ですよ。もう少し踏み込めば、目からウロコになりますよ」ということですね。

だって、「無理にそうしなくても生きられる世界がある」と知ることができるんですから。

それは、「現状の外にある価値観」ですからね。

 

そしてそういう「現実と理想(幼い頃の学習)」の差に着目できると、思い込みから抜け出せます。

「なぜ現実はこうなんだ」という「現実が間違っている」思考から、「現実はそうだったんだ。私が思い込みを持っていただけなんだ」とできるかなと。

 

まとめ

なので、自分の価値観とはまったく違う価値観に触れてショックを受けた場合、「それは新たな世界への可能性だ」と思うのもいいかと思います。

そのショックは、ただ単純に、「理想と現実がごっちゃになっている」というだけです。

 

現実は、「自分の個性に合わせて生きる世界もある」です。

理想は、「こうしなきゃ、生きていけない」です。

この両者の区別をつけることですね。

 

で、実のところ、「やっぱりマスクをせずに嫌がらせをするのは、私には合わないな」と分かることも多いんですよ(笑

「確かに嫌がらせはすっきりするけど、一時的な憂さ晴らしでしかなかった。マスクをして、好きな人と気を配り合って生きる方が、幸せを実感できる」みたいに分かったりして。

すると、たとえ今までと同じ生き方をしていても、「私は自分でこの道を選ぶ」と、納得できます。

 

つまりは、「自分とは違う価値観で生きている人を許せて、自分は自分の価値観で、納得して生きられる」ということですね。

「マスクをしない人」も、「マスクを強制させようとしている人」も、「傍観者」も、心理的に許せるようになる、ということです。

「それも、その人たちの生存戦略だ。自分は自分の生存戦略で生き抜けばいいし、最終的に生き抜いたもの勝ちだ」と分かるかなと。

 

これが分かると、より自由に、状況に合った手段を選べるかと思います。

そして、違う価値観を持つ人を見たとしても、ねたむこともうらやむことも、ショックを受けることもなく、生きられるかもしれません。

いやまぁ、とはいえ私も、そういう「嫌がらせをしている人」を見ると、「この○○野郎!」とか言いたくなるとは思いますが(笑

 

ということで昨日と今日とで、なぜ「常識外の人」を知ると、私たちはショックを受けるのか、というお話でした。

今日はここまで~。

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